巻頭言
2013年5月


2013年5月05日

「キリストがすべて」

犬塚 契

 トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 ヨハネによる福音書 20章28節

 見渡せば「神」ばかりの世界が広がる。私たちの生きる世界は一宿一飯を与えてくれる人や、剛速球の投手も神にしてしまう。それは、きっと自分自身が神となっていることの裏返しなのだろう。神を認定し、審判する神以上の存在であろうとする人が見える。どうにかしてまことの神を亡き者にしようとする強い力には闇が見え、同時に「本当はどこにいるの」という叫びをも感じる。ヨハネによる福音書の20章は、疑いのトマスが復活のイエスキリストに出会うシーンがある。トマスのこの告白は、何ものをも神としてしまうような文化的背景での応答ではなく、神の名を誤って使うことがあれば、死をも意識するようなユダヤの背景での応答である。目の前の人間を神とするなど、頭をよぎったことも、想像したことも、まして告白したこともないような状況下で、紛れもなくイエスキリストに対してトマスは語りました。「わたしの主、わたしの神よ」▲2013年のふじみキリスト教会もまたそのことを知らされる歩みでありたい。キリストに置き換わる言葉も代替品はどこにもなく、神であられる方が時間的、肉体的、空間的、制約をもって地に来られた「受肉」という有り得ないような歴史的な出来事があり、十字架による罪の贖いという分不相応な恵みを受け、復活の主イエスの事実において今日も伴なってくださる神がおられることをその聖霊の働きによって知らされている。たとえ日本においては少数派であっても、信仰者・礼拝者として世に生きるものとして、ともし火を掲げたいと思う。ヨハネが福音書の1章で記したように、光は闇の中でこそ輝く。十字架を掲げる「キリスト教会」が、なお「キリストの教会」として、その独自性と存在意義を改めて示されていくことを祈り、ふじみキリスト教会もまたその列に加わる歩みを続けたい。



2013年5月12日

「もう戦わなくてもいい」

犬塚 契

 多くの民が来て言う。「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう」と。主の教えはシオンから/御言葉はエルサレムから出る。主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし/槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず/もはや戦うことを学ばない。ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。 イザヤ書2章1-5節

 「終わりの日に」から始まる預言者イザヤの預言。ある人は敗戦後の幻と読み、他の人はこれからの戦争を見越しての預言だと読む。どちらにせよ、イザヤの幻は見ても見なくてもよいようなコマーシャルでなく、その時に必要な幻であった。ならば最初の「終わりの日に」との言葉は、いまから数千年後に追いやってしまうべきではなく、今日に聞く言葉なのだろう。▲イザヤの幻は、多くの民が「主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう」というものだった。弱さ溢れる小国が信じる神を、多くの民があがめ礼拝へと向かうのをイザヤは見て、人々に伝えたのだった。▲人の心はクルクル変わる。状況、環境、天気、湿度と温度、風向、匂い、騒音、空腹、タイミング・・・影響を受けて変わる。しかし、イザヤの「終わりの日」の幻は、神に予定の変更がないことを明らかにしてくれている。隣国アッシリアもエジプトの動向も関係なく、神の礼拝する者を取り戻そうとする働きは、「終わりの日」に向かう中においても変わらないのだ。どこまでも支配は神のものであり、人が神様ごっこをする必要がなく、武器を握りしめておびえる必要もないと続く。私たちのもつ恐怖は、恐らくは支配できないところから来ることが多いのだろう。手が届かないことを知らされた時の一瞬で降ってくる、または沸いてくる不安の裏に支配を広げたい自分の欲やエゴが見える。神がどこかに追いやられ、人がそこに居座っている。それは、やがて戦争に結びつく立場の交代である。▲イザヤ書にあらわされた神の情熱は、なおも人を礼拝するものへと導く。「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう。mane」



2013年5月19日

「わたしが来てからは」

犬塚 契

 わたしが来るまではわずかだった家畜が、今ではこんなに多くなっています。わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます。 創世記30章30節

 兄エサウのかかとをつかみ「おしのける者」として生まれてきたヤコブにして、後の歩みもまたその延長にあった。兄エサウの祝福を策略によって強奪し、それによって命狙われてのハランへの逃亡、逃亡先での強引な振る舞いとヤコブ自身が描く自らの道への固執・・・。聖書はそのヤコブの生身の人としての有様を記しながら、変わりなき神ご自身の彼への取り扱いを見させてくれる。それは現代を生きる私たち一人ひとりへの神の計らいを知ることへとつながるだろうか。▲ヤコブは少なくとも14年以上は、レアとラケルという二人の妻のため、おじのラバンのためにハランに滞在していた。最愛の妻ラケルが初めての出産をして、彼は故郷に帰ることを望み、ラバンに申し出た。ずっと頭から離れなかった父イサク、母リベカのこと、祝福を受けたはずの家族とそれに続く一族のこと・・・。いよいよの帰郷を願ったヤコブの気持ちは、理解できる。それでも、おじラバンは、更なるヤコブの祝福のこぼれを願って、去らせることを望まなかった。▲上記聖書個所、ヤコブはラバンに語った。「わたしが来てからは、主があなたを祝福しておられます」。ヤコブは自分に確かに働かれている神の祝福を数えることができるようにされていった。計らずも長い滞在となった歩みの内にも、自分の周りに置かれた人々にあっても、それぞれに神の祝福がみえるのだと彼は伝えた。挙げればなお多くの試練の中にある。おじラバンとの間の埋めきれない溝、二人の妻との間にある確執、葛藤。それらの緊張からヤコブはなお解放されているは言いがたい。それでもそのただ中にあって、 繁栄と成功と困難と試練を共にいただきながら、なお流れる祝福を祝福をとして受け取る。それは信仰者に与えられた神への信頼であり、信仰だと思う。





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