巻頭言
2012年05月


2012年05月06日

「光の子として」

犬塚 契

 「光の子として歩みなさい。…しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。明らかにされるものはみな、光となるのです。」  エフェソ 5:8…13-14

 「ひかり♪ひかり♪わたくしたちはひかりのこども♪明るいこども♪…」教会学校で幼い時に賛美した。メロディも歌詞も好きではあったが、なんとなく自分の言葉ににはなっていない感覚があった。これは、明るい「ひかり」ちゃんの歌であって、僕の歌ではないような。パウロの書いた「光の子として」とはどういう意味だったのだろう。▲暗くしとけば分からなかった部屋の散かりは、スイッチを入れた途端に光に照らされてその様子は明らかになる。同様に神の働きなる光は、人の根底にあるものを明らかにするだろう。そこに一体何を見るのだろう。目を逸らすことのできないその有り様は、人をどこへ導くだろうか。私が二十歳になった時、「何が辛いって自分が見させられることが辛い」と話してくれたのは、元気に英語の先生をしていたある教会のアラフォーのスタッフだった。人を指差すことに終始せず、自らの貧しさに光あてられることを避けなかった彼女は「光の子」だったろうか。光照らされるとき、それがひどさと苦しみの中にあっても、他の何でも得られない人生の根底に触れられている故の安心感をいただくものなのだと思う。結局、頭飛び越された期待は人を対して喜ばせはしないのだろう。照らされるべきが照らされて、主の前で明らかにされ、真の主の思いを知り、生きるを得るのだと思う。「明らかにされるものはみな、○○○となるのです」。入る言葉は、「不用品」でも「廃棄処分」でない、光である。主イエスキリストの前で罪があらわになって、赦されずに見捨てられた人を聖書に見出すことはできない。光当てられ、何が見え、何が出てきたとしても驚くに値しない。私たちはきっと、それほどである。驚くは、それを光とされる神ご自身である。



2012年05月13日

「妻・夫・教会」

犬塚 契

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。         エフェソ 5章21節〜

 ユダヤ人たちの祈祷文の中には、自分が奴隷にも、異邦人にも、女性にも造られなかったことを感謝する一文があった。妻は夫の所有物のようにみられ、驚くほど簡単にそれこそ食事が塩辛いくらいで離婚されるような有り様であった。ギリシャ人は日常の快楽のために娼婦を持ち、同棲者として愛人を持ち、合法的に子どもを生み家事を管理するために結婚があり、妻を得たなどといわれていた。ローマ人においても、「離婚するために結婚し結婚するために離婚する」といわれるほどで、ある人は10人とある人は20人と結婚したという。そんな背景ある古代世界へのパウロの勧め。▲成していることに意味が見出せない時、苦しい。一切がふと徒労に思える時、悲しい。パウロはまず「妻たちよ」と呼びかける。パウロは、関係作りへの動機を失い、意欲そがれるような状態の女性達になお「妻たれ」と言うのか。当時の状況を思って想像するとそれは過酷にも思える。一体、彼女たちはどう聞いたのだろう。▲気付くと毎日の歩みの中でなかなか創造的に出来事を捉えることができず、破壊的な方向性へ心を向けている。毎日は惰性化、くりかえしか、なげやりか、徒労か、あきらめか…。口から出るのは、愚痴かため息かいびきか。5章のキーワードは「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」であって、5章全体の結び目である。すべての関係は、キリストへの畏れをベースにして創造的な出来事へと向う。キリストへの畏れとは、愛と信頼を意味する。イスラエルの民と神の関係・教会とキリストの関係、それに倣う妻と夫の関係…。どれほど神がイスラエルを慕ったか(ホセア2章)、どれほどキリストが憐れまれたか(マタイ9章)。私たちの関係が貧しい模像・破れた模像にしかならなくとも、なお主イエスの今日を守られるまなざしの中で破壊でなく、新しい創造の日を歩ませていただきたい。



2012年05月20日

「伝道研修会に参加して」

犬塚 契

 だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。使徒言行録2:36

 わたしたちの主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において、成長しなさい。このイエス・キリストに、今も、また永遠に栄光がありますように、アーメン。<Uペトロ3:18> わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが…<TコリントT:23>  オアシスチャーチミニストリーの働きをされている玉井邦美先生をお招きしての「伝道研修会」を5月12-13日にもちました。土曜日は13:00-19:30までの長い時間の研修でしたが、疲れすぎることのない有意義な時間となりました。玉井先生の20分ほどのメッセージを聞いたのちに4グループに分かれて、話し合いと分かち合いを繰り返すようなプログラムでした。メッセージは全部で4つあり、@「神の最大の関心事は何か」、A「この世における人間の状態とは」、B「神の伝道プログラムにおける人間の役割とは」、C「伝道の弊害は何か?」というものでした。最後に「実を結ぶあかしのために」というタイトルで講演をしてくださいました。講師のメッセージを聞くだけでなく、それを受けて自分なりに咀嚼し分かち合い、またそれぞれが今感じたまま、歩んでいるままを聞くことができたことは原寸大の新鮮味がありました。次の日は、朝7:00〜の早朝礼拝と11::00〜の第二礼拝においても「これからの時代のキリスト者へ〜キリストへの再フォーカス〜」と題して宣教をしていただきました。上記の3つの箇所を開きながら、説教題のように「再フォーカス」へ導くようなメッセージでした。午後13:00〜「伝道研修会A」の時間は、レジュメに沿って聖書のメッセージのアウトラインをなぞりました。それを伝える練習の時間もあり、よい緊張もいただきました。講師への本音の質問なども聞けたことも感謝でした。



2012年05月27日

「子と親」

犬塚 修

 「子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。」 エフェソ6:1

 今年の3月に32000年前のなでしこの種がロシアの永久凍土から発見され、研究者の努力によって、再び花が咲いたというニュースを聞き、びっくり仰天した。確かに天地創造、全能の神は途方もない時間をも、見事に支配される神であるがゆえに、私達はあきらめとか失望に陥る事は要らないと教えられる。短い年月の中で、物事を性急に判断したり、結論を下してはならない。ジッと忍耐して待つという事が大切である。私達は早急な答えを求めたり、自分や隣人に対しても、早い変化や成長を期待してしまう事はないだろうか。どんなに多忙であっても、せめて心はゆっくりと憩い、豊かなゆとりを持ちたいものである。ここに「父は母を敬え」は単なる道徳訓ではない。これは神の聖なる絶対的な命令である。神は私達に父母を与えられた。親の真の価値は神が特別に与えられたという事にある。良い親、悪い親かが問題ではない。親という存在は自分に命を授けてくれた事で感謝し、尊敬に値する。完全な親などいない。どんなに不完全な親でも神に立てられた命の恩人である。子は親に対する従順を通して、神の恵みを体験していく。神の業はすばらしく、いかなる過ちも赦し、一切を神は益に変え守られる。親に従う事で、豊かな祝福に与る事ができる。また、私達が主の中に生きるならば、平安とゆとりが豊かに与えられる。「時」を支配される主が共におられるので、恐れるものはなくなっていく。私達の最大の敵は人ではなく、実は自分の弱気、恐れ、心配、不安である。つまり自分自身である。不幸の原因を人にせいにする事なく、主を深く受け容れるならば、親子関係は、癒され、更にすばらしいものとなっていくと信じる。


TOP