巻頭言
2011年5月


2011年5月1日

「復活の朝」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。 ルカによる福音書 24章5―8節

 復活とはすごい話しだと思う。もし復活を信じることができるのなら、聖書に度々登場するあらゆる奇跡(水からぶどう酒への変化、病気の癒しも処女降誕も…)も容易に信じることができるように思った。・・・それで、ルカの24章のような、聖書の箇所を読むと状況証拠の収集を始めたり、思い出したりするのだ。▲ほぉーなるほど、なるほど、自分の死を恐れて、わた毛を散らしたように師を見捨てた弟子達が、後に死を恐れず軒並み殉教していったのには理由があるはずだ!または、著作なし、生涯作品なし、財産なし、妻子なし、教えた弟子は解散、後継者なしのローマの死刑囚が歴史を二分するのに至ったのは何らかの理由があるはずだ!(数万の十字架刑のうちなぜこのイエスだけが特別となったのか)イエス以後のユダヤ教のある一派は、長いこと続けてきた神へ動物の犠牲を奉げるという行為をやめた。また、その一派は長い伝統を超えて、土曜日ではなく日曜日に礼拝を持つようになった。大切にしてきたはずの律法だが、それだけは義とされないといい始め、死んだはずのイエスを救い主とし、クリスチャンと呼ばれはじめた。イエスの磔刑で終焉したのではない、その後に何かが起きたと考えるのが自然だ。・・・しかし、状況証拠だけでは信仰は生まれない気がした。▲上記の聖書箇所、婦人たちは聞いていたのに、知っていたのに、信じていなかったことが露わにされた箇所。そして、懸命に香油を塗ろうと死体捜しを始めた。「どこ?どこ、どこ、私の香油を塗るべき死体はどこですか」。心はあってもチャッチャッと幕引きで終わらせようとする人の限界を超えて、復活は神からの宣言として届き、響く。“死”も、神と人との関係の終焉に成り得ないという一方的な宣言が、イースターの出来事なのだ。



2011年5月8日

「エマオの道」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。                 ルカによる福音書24章29節

 イエスキリストの十字架の出来事と続く復活の後。エルサレムから11キロの道程、エマオという町へ二人の弟子が向う場面。弟子の名前は一人だけが書かれている。“クレオパ”という名前だった。クレオパトロスを短く言ったもので、クロパとも略せる。そうするとヨハネ19:25に登場する人と関係があるだろうか。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた」。十字架の金曜日から、わずか二日。エルサレムから早々に離れるこの二人の弟子とは、クレオパとマリアの夫婦だったのではないだろうか。そして、この夫婦の旅程は温泉旅行でなく(エマオには温泉の意味がある)、エルサレムからの逃亡だったのではないかと思う。後ろめたさ残る道中の会話はどんなものだったのだろう。恐らくは24章19−24節に書かれていることの繰り返しだったのではないだろうか。「※あー、もうなんてことだろう。これからの私達の希望だったのに、あのナザレのイエスに期待したのに、十字架につけられてしまった。しかし、墓に葬られたはずのイエスの体は見つからなかったというし、天使はイエスが生きていると告げた。一体全体、どうなっているのだろう。※繰り返し」▲“人の知恵”とはどれほどのものなのだろう。繰り返される出口のない問答。この夫婦と同じような会話をしていることがある。しかし、その歩みに寄り添われたイエスキリストの姿に“静かにも働くことのできる神”をみる。この箇所を読むとき、復活という一大事件をオープンにするには、あまりに地味ではないかと思った。「ホラ、見たことか!」式の方法はなかったのだろうか。なされたことは、傷ついた夫婦に静かに伴われながら、ご自身を現してくださることだった。神の忍耐がある。信仰者の歩みはただ主と食卓を共にしたいと願い続けることなのだと思う。



2011年5月15日

「本当の幸い」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 マタイ4章25節〜5章3節

 イエスキリストの福音宣教、初期。そのなされた業は熱狂的に人々に受け入れられた。ガリラヤ中のシナゴーグで教え、おびただしい人々を癒し、癒された人々のうわさは瞬く間に広がり、さらにおびただしい人々がイエスキリストのところに押し寄せてきた。この人々は最後までイエスキリストに従ったのではなさそうで、やはり単に癒しと奇跡に熱狂した人々だった。自分がこの時代を生きていたら、やはり同じ反応をしたと思う。癒されて感動をし、感謝をしても、その記憶や経験は時間と共に風化して、疑いへと変化していっただろうと思う。マタイの5章から始まる山の上の説教は、そんなおびただしい人々を背景にして、弟子達に語られた主イエスのことばだった。さまざまな人々が幸福論を著し、幸せを説く。しかし、イエスキリストの出だしは民衆にも弟子達にも驚きだったと思う。ギリシヤ語の順番では「あぁ、あぁ!本当に幸いなるかな!心貧しき者よ。」と最初に感嘆のことばがあり、そこからの始まりの文となっている。冗談でもない、ふざけているのでも、奇をてらう言葉でも、弱者への気休めでもない。人の考える幸福論では、あり得ない言葉であり、宣言がある。神にしか語り得ない言葉である。▲弟が2歳の時、昼寝をしている兄二人を家に残して、両親の働く教会へ向ったことがある。大人の足で歩いて5分ほど。よくぞ道を覚えていたと思う。しかし、最後の最後の4車線の県道は渡れなかった。車の流れは止まらない。ただ電柱にしがみついて泣く以外になかった。泣き声に母が気付いて、近寄ることによって弟は両親に会えた。▲心の貧しさとは渡れない道のように思う。見させられる貧しさに、膝が震え、涙するときに、このイエスキリストの「あぁ、幸いなるかな!」の宣言が届くのだと思う。



2011年5月22日

「地の塩・世の光」・・・先週の説教要旨b>

犬塚 修

 1「地の塩」―――「地の塩」は食物の腐敗を防ぎ、美味しく味をつけ、また保存する効力を持っている。もしこの世に塩がないならば、人間は生きていくことができない。主イエスは、キリスト者をこの塩にたとえられた。私たちに与えられた証の使命の大きさに驚く。塩は大切な役目を果たすためには、自らの形を捨てる。塩は自分の姿を失ってこそ、大きな働きをする。同様に私たちも、主のために自分自身を捨てる覚悟で生きたいものである。この世は時として、悪魔の支配に屈し、非人間的にやりやすい。また無責任、冷酷にもなる。このような世の風潮に妥協し、自己保身や富の誘惑に目がくらむならば、「何の益にもならず、外に投げ捨てられてしまう」結果を招くであろう。「山椒は小粒でもピリリと辛い」ように、私たちは、たとえ多数の人々に嫌われたり、迫害されても、神の義を信じ、語るべきことは大胆に発言していきたいものである。  2 「世の光」―――主は弟子を「世の光」と呼ばれた。驚くべき言葉である。なぜならば、「私は世の光である」(ヨハネ8:12)と主は言われたからである。私たちはイエスに似た尊厳に満ちた存在とされている。自分の罪深さや、弱さを認めざるを得ないし、自分は無価値だと感じてしまうことがある。にもかかわらず、主は「あなたは私に似ている」と宣言された。ならば、私たちはイエスのように輝き、愛に満ちた生き方に至る可能性があるのだ。からし種は極小の種であるが、それが地に蒔かれると、巨大な木と成長していくのと似ている。ゆえに、私たちは自分を卑下してはならない。また、人々に対して尊敬の心をもって主に対するように接したい。私たちは太陽のような発光体ではなく、月のように、太陽の光を反射する使命がある。イエスの永遠の愛の光を受けて、暗黒を照らし出す生き方を実践したいものである。



2011年5月29日

「正しい関係」・・・先週の説教要旨b>

犬塚 修

だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。 マタイによる福音書5章21〜26節

 一昨年、テレビである水族館が5万匹の鰯を操ってクリスマスツリーの演出に挑戦しているのを放送していた。私が見た時はまだ実験段階で、鰯はツリーを形作るまでには至っていなかった。エサのあげ方の工夫で鰯たちの動きが変わるのを利用しているが、なお試行錯誤していると飼育員は話していた。そして付け加えるように、鰯が群れるのは自分だけは食われてなるものかと群れの奥に、奥に、さらに奥にとそれぞれが入り込んでいくからだと聞いた。魚に弱いと書いて鰯。私はてっきり弱いからこその助け合いの精神で…でと考えていたので、びっくりした。そして「なんて夢のないハナシをこの飼育員は…」と恨めしくテレビを眺めた。しばらく時間が経って鰯の習性に合点がいった。自分はべつに食われてもいいやというのが鰯の習性ならば、やっぱり群れにはならず、鰯はそれぞれの場所でそれぞれに捕食されていくのだろう。飼育員の話した鰯の習性は、夢はないけど、恐らく自然な行為なのだと。▲上記のような聖書箇所を読むと注解書なんてペラペラめくり、イエスキリストが山上で弟子達に語れられたことの逃げ道を探す。これは比喩か、冗談か、真意は別のところあるのか…。神への礼拝の前に、人の関係の修復をしなさいと。「人間関係」という言葉を聞いて、どこまでも明るく広がるポジティブなイメージよりも、なんだかやっかいで難しいことを想像するようになった。イエスキリストの言葉に、逃げ道を探したくなるのは、恐らくはあり得ないハナシだからだ。それでも、割引いて聞けない主イエスの言葉。ここに神に守られ愛されているキリストの弟子達は、そのあり得ない話を生きるよう召されているのだ励ましがある。


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