巻頭言
2010年5月


2010年5月2日

「苦難と喜びは響き合って・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

顔を合わせて、あなたがたの信仰に必要なものを補いたいと、夜も昼も切に祈っています。      Tテサロニケ3章

ヘンリー・ナーウェンが著作の中で紹介している友人。彼を前にしてナーウェンは戦争・飢餓・政治の腐敗・騙しあいといった人間のどうしようもない姿を見せつけたくなるとそうです。しかし、その友人はやさしい目で答えるのです。『二人の子供がね、パンを分け合っているのを見たよ。一人の婦人が毛布をかけてもらったとき、微笑みながら「ありがとう」って言うのを聞いたよ。わたしに生きる勇気を与えてくれたのは、こういう貧しくとも素朴な人々なんだ。』▲パウロは生まれたばかりのテサロニケの教会に、ただの甘言でごまかそうとしませんでした。しっかりと神に従う故の苦難があると語りました。けれども、それは降って湧いた事故でもなければ、神の知らぬところではない。災いのようなものではなく、当然起きてくることなのだと。神の知らぬところの苦しみでなく、他人事の、神不在の中の悩みでなく、苦難と喜びは響き合うのだと語ります。喜びとは、幸せな気分な状態でなく、神を信じる人の歩みは、苦難と喜びが共存できると。振り返って歩みを思い起こす時に、真の喜びを見出す場とは苦難の中であったことを思います。そして、喜びは選び取りでもあります。恨みを引き出すか、喜びを引き出すかの選択がいつもあります。ナーウェンは言います。「それがどんな一日であっても、しばらくの時間、その一日を感謝する日として思い返すこともできます。そうすることによって、喜びを選択する心の余裕が増してくるでしょう」。やはり、私たちは神ではない。人間です。ご飯を食べ、水を飲み、汗をかき、手を合わせて、頭を垂れて生きる者でありたいと思います。 「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」 詩篇119:71 口語訳



2010年5月9日

「手をひいて・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

「さあ、大いなる都ニネベに行ってこれに呼びかけよ。彼らの悪はわたしの前に届いている。」しかしヨナは主から逃れようとして出発し、タルシシュに向かった。 ヨナ書1章

ニネベはアッシリヤ(現在のイラク)の中心地だった。このニネベの町の腐敗が神の前に届き、それは痛みとなり、悔い改めのため預言者を遣わされることとなった。アミタイの子ヨナは列王記U14章にも登場する預言者であった。神のみ声を注意深く聞ける特別な賜物を神から預かり、それを人々に伝える使命を帯びた者こそが預言者だった。しかし、ヨナは応答しなかった。無言、黙秘、無視をした。言い返すでもなく、相談するでもなく、聞こえないふりをして、逃げた。神は執念深いと思ったか、神のあきらめを誘ったか、ニネベと逆の方角に位置したであろうタルシシュ行きの船に乗った。しかし、同時に彼は預言者として心に責めも感じていた。「人々に紛れ込んで」しまえば気が楽になるかと試した。多くの異邦人に混じっては神も見つけられまい。そして、船の底でふて寝を始めた。しかし、大嵐が起き、異教の神を信じる船長の口を通して言われたことは意外な一言だった。「さぁ、起きてあなたの神を呼べ」▲人が難しいと思うことは多い。表面的な見方しかできず、勝手なイメージを抱いて人と関わりをもとうとすると、それが浅はかであることを度々痛みをもって知る。人はもっと複雑で、豊かであり、もっと大切に扱われるべきだとその度に思う。やっぱり人を知らないのだと。同じように、否、それ以上にヨナも私も神のことを知らない。理由も聞かずに逃げる。神の腹を知らずに、交わりを途中で絶とうとする。私たちの周りの出来事からの響きは必ずしも心地よいものではないかも知れない。しかし、起きる一切は更なる交わりを求める神の恵みの合図なのだと信じて歩みたい。「さぁ、起きてあなたの神を呼べ」不信仰の時代に神との交わりをいただく者でありたい。



2010年5月16日

「よしとされながら・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

「わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと。生きて再び聖なる神殿を見ることがあろうかと。」               ヨナ書2章

1章において神との対話を避けて無視、逃走をしたヨナ。しかし、使用した船は沈没寸前になった。原因はヨナにあった。荒れたと言えどもそこは船の上、死への現実性が薄い時には、「わたしの手足を捕らえて海にほうり込むがよい」とヨナは言うことができた。しかし、「波また波がわたしの上を越えて行」き、「深淵に呑み込まれ、水草が頭に絡みつく」ようになると呼吸ができなくなり、溺死へのリアリティがはじめてヨナの前に描き出された。そうなって、ようやくヨナは神と対話をはじめる。▲「わたしは思った あなたの御前から追放されたのだと」。追放されただって?いやいやヨナさん、あなたが逃げたのですよと言いたくなるような言葉。ニネベに行きなさいという使命を無視して、タルシシュに逃れようとしたのは確かにヨナだった。ヨナが神を締め出し、追放したのが実際の流れだった。しかし、魂の状態においては、逃げたのに追放されたような感覚、生きているのに生きていない感覚、やりたいことをしているのに満たされない感覚があった。ヨナは神との交わりが絶たれていることを知った。そして、再び聖なる神殿を見たい、礼拝をしたいとの祈りに導かれる。▲2章には悔い改めが出てこない。多くの学者はこれは「感謝の詩」だとする。「感謝」であって「悔い改め」ではないと。確かにヨナの言葉には、なおなお矛盾があるようにみえる。短い4章から成るヨナ書においても人間を単純には語らない。人は少しづつ変えられるものなのだ。361度づつ、変えられる者。そして、その途上にある者を神様はその時点で受け入れ、導いてくださる。それでも「よしとされながら」私たちは生きる。そうでないと私に立つ瀬なんてない。▲人が作り上げた基準の前で多くの人が、魂の渇き、立つ場を失って久しい。救いは主にこそある。証し人でありたい。



2010年5月23日

「再びに生かされ・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

主の言葉が再びヨナに臨んだ。「さあ、大いなる都ニネベに行って、わたしがお前に語る言葉を告げよ。」                  ヨナ書3章

叱咤してくれる人、激励してくれる人、鼓舞してくれる人、アイデアをくれる人、知恵を授けてくれる人、元気を分けてくれる人、困った時には駆けつけてくれる人・・・様々な人々に支えられて生きている。それぞれの人々が必要だと思う。それでも召された本多姉の存在が大きく感じるのは、いつもそこにいてくれる人だったからだ。変わらない人。失敗し、赤面し、逃げ場無く、恐る恐る振り返ってもなおそこに存在とほほえみがあるとは何と勇気付けられることか。▲かつてモーセは神からイスラエルを導くリーダーとして召された時に神に尋ねた。「もしお前の神とは誰か、名は何か」と言われたらどうしましょうかと。どう神を証明しましょう。なんて弁明しましょう。神は答えた。「わたしはある。わたしはあるという者だ」▲ときどき人に神を伝える際に、なんだかおかしな関係になっていることがある。神を被告の席におき、自分が弁護士になったかのように、懸命に神の証明のために弁護をする。脂汗をかきながら、神の擁護、弁護をしようとする。しかし、はたして人から取り繕われ、弁護される神は神なのかと。人から守ってもらわなければならない神は神なのかと。否、違う。神はご自分でご自身を現すことのできるお方である。必要なのは「わたしはある」という神を、私が真に信じて生きていくことなのだ。神を遠くに置かない。棚に飾らない。どこかに忘れない。今日、「わたしはある」と言われる方を信じて歩くのだ。▲ヨナに主の言葉が「再び」望んだ。変わりなき神の言葉、変わりなき神の存在、変わりなき神の愛。「再び」に生かされているのは、ヨナだけでない。恥ずかしい歩みを繰り返す私も「再び」に生かされる。「わたしはある」といわれる神の言葉に圧倒される歩みをしたい。私たちは何度でも失敗する。しかし、その度ごとに再び語りかけられる神の言葉を聴きながら、もう一度生かされる経験を繰り返していきたい。



2010年5月30日

「なぜ怒るのか・・・先週の説教要旨」

牧師 犬塚 契

「主は言われた。「お前は怒るが、それは正しいことか。」   ヨナ書4章

人が帯びやすいもの、ためやすいものは、やはり“怒り”ではないかと思う。“喜び”が蓄えられたり、いつも思い起こされたりすればいいのに、駅でも道路でもごみ集積場でもお店でも、もたげるのは怒りである。平身低頭で日常の業務をこなしている人が、所変わって消費者、客になった途端に“モンスター”になる場面も見聞きする。享受できる権利だけが主張され、やさしさも逃げ道も共感も上手に捨ててしまう“モンスター”が跋扈する。そして、そんなモンスターは隣の“人”も“モンスター”に変える。それは他人事でない。根底にずっとある不公平感、「期待通りでない」「こんなはずじゃない」という思いがわたしを占めているとしたらやはり怒りの人だ。仕事、学業、結婚生活、子育て、社会復帰、性別、出身…。様々な事柄に対して、思い通りでないと怒りをもって生きている。4章のヨナもまた同じである。▲「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です」。敵国ニネベに対するこの神の寛容さがヨナには我慢がならなかった。そんなの不公平だ!と思った。しかし、ヨナは神の寛容さが他でもない自分にも向けられていることにまだ気が付かない。そんなヨナに、神はただやさしさをもって問いかける「お前は怒るが、それは正しいことか」。▲怒りに怒りで返されたら、もっと辛いと思う。更に怒りを覚え、生きるのが嫌になる。そもそも神に対して怒る理由など人間の側に存在するのだろうかとも思う。それでも神は、そんな人に付き添って歩みを続ける。問われていきたい。わたしとって、神は「恵みと哀れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとして・・・」なっているだろうか。▲「私たちの心の中には、苦しみを苦しみとして引き受けられず、不安を生きられないゆえにかえって多くの不幸を呼びこんでしまう側面があるように思えるが、もしかしたら苦しみを苦しみとして、不安を不安として生きるとき…今まで見えなかったものが見え、感じられなかったものが感じられてくるのかもしれない。」(工藤信夫著 折々の言より)


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