巻頭言
2009年5月



2009年5月3日

「過去、現在、未来」

牧師 犬塚 契

『わたしは、あなたの先祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神 である』。 使徒言行録 7章32節

断片的に、ショッキングで、食い付きがいいように伝えられるから、反応も早く、劇的だ。ちょっと前に北から飛んできた「飛翔体」 も、今の豚インフルエンザも…。人類滅亡の危機かのように騒がれ る。「メキシコ産」が妙に目を引くし、吉野家で「豚丼」を注文し た人は、一瞬他の客の視線を浴びた。「おぉ〜勇気がある」。あれ 、熱を通せば問題ないんだった。記憶も情報もおおよそ曖昧で不確 かだ。ラジオでは専門医が「騒ぎすぎだ。日本でのインフルエンザ 脳症の方がよっぽど深刻だ」と解説していた。子どものインフルエ ンザの合併症で毎年数百人が発症し、3割の子どもたちがいのちを 落とし、2.5割の子どもたちに後遺症を残す。そう聞いてしまった ら、子が熱っぽいときに頭に浮かぶ選択肢が増えてしまった。▲波 風に弱い小船のようと言おうか。出エジプトの民を地で行っている と言おうか。聖書に登場する民の葛藤や弱さは、国や時代、状況は 変われど、私たちが生きているところにそう遠くはないのではない かと。恐れと不安は生きる動機を薄く、さらに薄くさせる。地に足 着かず、ますます刹那的になっていく。▲なんだかそこに神の自己 紹介が響くように思う。「アブラハム、イサク、ヤコブの神」。そ こには連綿とした歴史があり、過去、現在、未来へと続く神がある 。じいちゃん、とうちゃん、こどもの神は、続いて孫の神でもある 。昨日を守りたもう神は、今日も、明日も守る。「アブラハム、イ サク、ヤコブの神」を希望を持って信じ生きた人々は、期待以上を 得て、天へ凱旋した。そんな道に続く者でありたい。


2009年5月10日

もうこれでいい。

牧師 犬塚 修

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。 フィリピの信徒への手紙 

ゲッセマネの園で、イエス様は血の汗を流しながら、祈られました。それは、 まさに悪魔との決闘、血戦というべき苛烈な霊的戦いであり、全人類の救い がこの戦いにかかっていました。そこで、主はどうか眠らないで、私のため に祈って欲しいと弟子達に頼まれたのです。一人で戦うには余りにも激しい 戦いであったのです。ところが、何と言う事か。疲れていた弟子達は不覚に も眠りこけてしまったのです。それはいつまでも最大の恥辱として語り継が れるべき大失態と言えます。しかし、イエス様は彼らの無様な姿に激怒され ませんでした。むしろ、その声は、愛と優しさに包まれていました。「もう これでいい」。主は彼らの肉の弱さを熟知しておられました。主は、自分の 命を捨てて、愛の衣で彼らの弱さを完全に覆われたのです。私達は自分の肉 の弱さに愕然となる時があります。大失敗の時は、自分を責め、激しく落ち 込みます。しかし、主のみ声は「もう、それ以上、自分を嫌悪するな。私は あなたを許す」です。そして、私達の弱さと罪のために、「罪人たちの手に 引き渡される」十字架の道を歩み出されたのです。ゆえに、私達は自分が罪 を犯したならば、いつも十字架の赦しを思い、また主の声に聴き従う事です。

 

 


2009年5月17日

「十字架の横」

牧師 犬塚 契

何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、 キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです。

フィリピの信徒への手紙  3章18節14:40〜41

ある人の祈りによ って、ふじみ教会に十字架が2本立っていることの豊かな意味を知らされて 感謝だった。すでにあった十字架に加えて、今はLEDで夜も輝くめぐみ館の 十字架がある。礼拝堂の中の十字架を加えると3本になる。私たちが礼拝に 集う時、2本の十字架の横を通り、3本目の十字架の前で席に着く。1本では 足りないとか、何本あればいいとか、本数の問題ではなく、神様の法外な 赦しを表わして いるように感じる。▲自分がコンビニで菓子折りを買うなんて想像もして いなかったが、意外と機会があるもので、仕事で粗相をしては、買ってお 届けした。ここ数年で4つは買ったと思う。その内一つは、自分で食べた。 甘く、しょっぱい、ようかんだった。▲人への恐れや愛のなさ、自分への不 信、期待通りにいかないときの傲慢な怒り、自分の内を静かに見つめさせら れるとき、十字架の横を素通りできないように思った。罪は、菓子折りで許 されることではなく、十字架上での救い主の血が流れる必要があったのだと 時に痛切に感じられる。パウロは「涙ながらに」十字架を強調する。罪人は 自分で罪の赦しを宣言できない。身代わりの主イエスのみがその宣言ができ る。いつも、十字架の横にある者でありたい。

 


2009年5月24日

「心を尽くして」

牧師 犬塚 修

あなたは心を尽くし、 魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。申命記6:5

 

 

「心を尽くす」とは「精一杯、できる限り、 限界まで」という意味です。私達が主に対して、このように全身全霊を傾けた愛を捧げることができ るならば、どんなにすばらしい事でしょうか。しかし、心を尽くさず、愛の業が中途半端に終わる場 合も多い気がします。たとえば、み言を読んで、「本当にその通りだ。よし従っていこう」と決意し ても、イザ試練や誘惑が来ると、確信も揺らぎ、不安と恐れに満たされてしまうのです。それは心の 中に、悪影響を受けやすい「扉」のような部分があって、開閉自由になっているからではないでしょ うか。「心を尽くす」とはこの扉に鍵をかけ、「開かずの扉」としてしまい、何があっても、「平安 と感謝、愛と希望、忍耐と喜び」等の聖霊の実だけを確信し、右にも左にも曲がらない生き方を実践 する事です。「時代閉塞の時代」という言葉がありますが、今の世は、不安と心配、思い煩いを陥り やすい時代かもしれません。しかし、このような中でも、物事を否定的に理解する思考のパタ−ン、 焦り、怒り、不安、心配、恐れ、無気力感等を拒否する生き方を貫きたいものです。心を尽くして主 を愛しましょう。「今までも、悪い事ばかりだった。今も最悪だ。これからも良くならない」という 悪魔による否定的な誘惑の言葉を捨て去りましょう。主は愛する者に与えられる未来は豊かで、祝福 に満ちたものであるからです。

 


2009年5月31日

「主イエスの願い」

牧師 犬塚 契

「…わたしを愛しているか。」 ヨハネによる福音書 21章17節

 

 

アマゾンの大地を大きく蛇行する川のように、旧約のイスラエルの民も右に左に忙しかった。 腹がへっては「もう死ぬ〜」と過剰に反応し、満腹しては神を忘れた。昨日と今日では気分が変わり、神の直接な関わりをおせっかいと受け取った。 新約時代のイエス・キリストに従った精鋭12名もやはり怪しい。救い主と同じ釜の飯を食べ、行動を共にしたのだから、もう少し洗練されてもいい のではないかと思うようなシーンも度々登場する。子供が近づいてくるのを見て、駄菓子や風船を用意したのではなく、邪魔だと思い遠ざけようした。 生まれつき目が見えない人を前にして、その犯人探しと原因追求を始めた。イエス・キリストが十字架に架かる直前まで、誰が一番偉いかと弟子の中の 順番を付けた。▲懸命に教えたり、伝えたり、関わったりする中で、当然相手への期待もまた比例して大きくなるもので、学校や塾の先生も、習い事の 教師も、部下のできた上司も、成果や結果を期待して、成長を楽しみにするものだと思う。反面、裏切られたと感じた時のショックも大きい。 イエス ・キリストは遅々として進まないようにみえる訓練期間にイライラはなかったのだろうか。▲復活後にペトロに言われた言葉から何を求めて一緒に過ご していたかが分かるように思った。「わたしを愛しているか」。求められているのは、期待通りの成功、成長というよりも、イエス・キリストとの愛の 関係だった。まず、神から無条件で愛されているという認識とその神に信頼して生きる心。さぁ、この願いにどう応えよう。

 

 

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