巻頭言
2006年5月


2006年5月7日

イエスに会う必要

牧師 犬塚 契

彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。  マルコによる福音書 5章5節

上記の聖書箇所以降を読むと近くに豚が飼われていたことが分かる。イスラエルの民にとって、豚は汚れた動物であるから、ゲラサという場所は、決して近づきたくない場所であった。そこに汚れた霊にとり付かれた人「レギオン」はいた。人は恐れを抱き、鎖でつなぎ止めておこうとした。社会から除け者にされ、誰ひとり彼に近づこうとはしなかった。彼は強いられてか、仕方なくか、誰もいない墓場を住処としていた。そこしか、彼の場所はなかった。毎日することは、叫び声をあげることと石で自分を打ちたたくことだった。イエス・キリストは、そのレギオンに会いにゲラサに来た。▲小さい頃、この話しの意味が分からなかった。教会学校でのお話しを聞いても、「なんでお墓なの?」「なんで豚が死んだの?」「豚を飼っていた人がかわいそう」と思った。▲自分のスペースを社会に見つけられず、墓場ではなくとも、どこにいけばいいのか分からなくなった人。自分を痛めつける以外に、傷つける以外に、生きていることの実感を感じることのできない人。昔で遠くの話しではないように思った。▲私もこのレギオンから遠く離れていないことを知る。だから、どこまでも伴走者であるイエスと出会う資格と必要がある。




2006年5月14日

礼拝と教会月間を迎えて

牧師 犬塚 修

  神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。一テモテ 3:15

教会はキリストのからだ、キリストは教会の頭です。頭から切り離されたからだは死にます。同じく私たちの心がキリストから離れたならば、心は死ぬのです。頭脳はからだに向かって、様々の指令を出し、からだはその命令に従う時、全体の調和が生まれるのです。万一、からだが頭の命令に従わないならば、全体は病み、ついには分裂するでしょう。教会は小さな群れに過ぎず、この世では、無力に映るかもしれません。しかし、天地を創造された神は、その輝く栄光と使命とを世を変革する偉大な力を教会に託されました。これはまことに信じがたい事実です。「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」(エフェソ1:22〜23)私たちの生きる使命はこの神の期待に応えて、自分を神に捧げることです。イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる」(ヨハネ15:5〜6)と言われました。変革する力は、イエス様と深く結ぶ信仰からあふれ出します。木の幹は大切な枝が切り取られると激しく痛みます。ゆえに私たちは何があっても主から離れてはなりません。しっかりとイエス様の命令に聴き従うことが重要です。




2006年5月21日

平和の神

牧師 犬塚 契

 神は無秩序の神ではなく、平和の神だからです。           Tコリント14章33節 

平和について、書く原稿があって、2ヶ月くらい頭を「平和」が巡っていて、ちっとも頭の中が平和ではない。定義が一つではないように思えたし、切り口だっていくつもある。締め切りが5月で、外に出るのが8月だから、戦争とからめての依頼なのだと思う。ホローストが行われたポーランドのオシフィエンチム(アウシュビッツ)に行った時に思わされたのは戦争がその時代、その状況、その時の指導者等の如何もさることながら、まさに日常に種があるということだった。「いなくなればいい」と思う心の集約、違いを受け入れず排除する方向性や指向性が、戦争へと直結していることを学んだ。そして、よく自分を吟味していると日常で行われていることだった。その最悪の結果を収容所でみた。「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15)。▲人は、混乱と無秩序の中にある。自分を神としたバベルの塔は更なる混乱を招いた。人を至上に置いたソ連は崩壊した。自分を神とするが故に、抜けられないその囲いを時には、「自分の信じるまま」とか「やりたいように」いう言葉に置き換えられて使われる。結果、さらに混乱を招く。秩序を与える神、平和の神によってのみ、「生きること」が意義付けられていくように思う。「つながっていなさい」とのイエスの言葉の前に、罪人であることを知りながら「アーメン」と言う




2006年5月28日

すべてに時があり

牧師 犬塚 修

  何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時…コヘレト3:1〜4

聖書を読んでいますと「時」についていろいろと考えさせられます。たとえば、まだ、その熟した時でないのに「自分の力で何とかしないといけない!」と焦ったり、自分の思ったようにならない現実に直面して「これは自分のせいだ」と自責の念で悩んだり、また逆に「これはあの人のせいだ。私には責任がない」とたえず相手を責め続けるパタ−ンもあります。どのようにしたら良い導きが与えられるのでしょうか。それは、全能の神に心の目を上げ、今、自分が立っている現在の場所も時も、主の恵みが現されるところとして、まずは受容することにあると信じます。主は必ず私たちの時を支配し、救いに導いて下さいます。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)とあります。自分を愛し、大事にすることです。必死で耐えるべき時は、海の貝を思い浮かべましょう。貝はただ静かにしています。彼らは過激な行動をとりません。試練の時は長く続かないと信じて生きましょう。しかし、今は信じ、立ち上がるべき時もあります。なすべきことが分かっていても、いろいろ理屈をつけて、決断を先延ばしてしまう優柔不断に陥らない事です。その時は後ろを振り返らず、突き進みましょう。私いずれにせよ、今がどんな時なのかを正しく判断する力は、主に祈り、日々、み言を読み「主よ、教えて下さい」という祈りから生まれます。



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