巻頭言
2005年5月


2005年5月1日

「奉仕と教会」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めてい ただけます。思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたの ことを心にかけていてくださるからです。 Tペトロ5:6〜7

「これもあれも私がしよう。私以外に誰もできないから。この私が何とかしな いといけない」という強迫観念が私たちを苦しめる時があります。またそれに ともなって出てくるあせりが事態をさらに悪化させます。物事に真摯に取り組 むまじめさはすばらしい人の証しです。しかし、そのあまりの熱心さが自らを 不安と思い煩いという暗い穴に引きずり込む時もあります。「永遠の命を受け 継ぐには、何をすればよいでしょうか。」(マルコ10章)と富める青年は真剣に イエス様に尋ねました。彼は小さな頃からよく聖書を学ぶまじめな模範生でし た。その彼に予期しない答えが返ってきました。「イエスは彼を見つめ、慈し んで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を 売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。 それから、わたしに従いなさい。」(21節)と答えられたからでした。彼は「い くら何でも自分はそこまではできない…。」と自分に絶望したのです。彼が去 ったのは悲しい事ですが、ここにイエス様の深遠な愛が迫ってきます。主はこ の人を長く続く苦しみから完全に解放しようとされたのです。彼には自分に対 する失意と悲しみ、そして、思い煩いを捨ててしまう決断が必要だったのです 。彼を苦しめていたものの一つは強い「万能感」でした。「自分ががんばれば 何でもできる」という力みが彼を心配症にしていたのです。イエス様はそれを 見抜き、人にはできないこともある事を教えられたのです。後日、彼に救いの 日は訪れた事を信じます。教会は模範生、また理想的な人間の集まりではあり ません。むしろ、自分に絶望し落胆した罪人の集まりです。教会はイエス様に よって生まれ変わり、さらに常に癒され続けていく所です。



2005年5月8日

諦めないで生きる

牧師 犬塚 修

あなたがたが、気力を失い疲れ果ててしまわないように、御自分に対する罪人 たちのこのような反抗を忍耐された方のことを、よく考えなさい。あなたがた はまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。 ヘブライ12:3〜4

木曜日の夕方、民放テレビのニュ−ス番組の中で、ある中学校の熱血先生の生 き様を取り上げていました。生徒に体ごとぶつかる体当たりの教育で、死に物 狂いで生きることの大切さを体現している真摯な生き方に深く感動いたしまし た。「子供はよく大人を見ているので、口先だけの教育は無力だ」と語り、自 ら33歳であるにもかかわらず、現役のシュート・ボクサーとして練習に励み 、今年の3月、引退覚悟のリングに上ったのです。こ一戦のために一ヶ月に8 kgの減量に耐えぬき、練習では、へとへとになるまで、練習に励む姿を生徒た ちはジッと見ていました。その子供たちは不良であったり、また、無気力な子 供たちに見えましたが、「心だけは折れないようにがんばる。正直言って、試 合は怖い。しかし、子供たちがおれの気合を見て、何かをつかんでくれ」とい う熱い思いは伝わっていたように感じました。ついに試合の日がきて、予想し たように最初から苦戦の連続で、相手の先週の猛攻を受けてKO寸前になり、 誰もが負けを覚悟したのですが、倒れる寸前、魂をこめた右フックが相手の左 て歓喜を爆発させる子供たちの表情が輝いていました。彼らは「努力すること 自体がかっこいいんだ」という生きる真理を学んだということが語られ、胸打 たれたドキュメントでした。ひたすらにかっこ悪く汗を流し、愚直なまでに苦 労を重ねることのすばらしさ、また何事にも中途半端にならず、最後まで勝利 を諦めず、信じて苛酷な運命に立ち向かう姿は、薫風が大地を吹きぬけるさわ やかに満ちたものでした。主イエス様の力に支えられて目標に向かってコツコ ツと信仰に生きることがどんなにすばらしい生き方かと思うものであります。



2005年5月15日

「勝利の信仰」

牧師 犬塚 修

これらのことを話したのは、あなたがたが私によって平和を得るためである。 あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私はすでに世に 勝っている。」      ヨハネ16:33

人生において、辛く、苦しく悲しい事が起こると、「主はなぜこんな事を?」 とつぶやき、主の愛を疑う時はないでしょうか。にせ預言者は「平安だ、平安 だ、楽しめ。すべてがうまくいくから。悪い事など起こるものか。」と甘い言 葉を連発しましたが、イエス様は「あなたがたには世で苦難がある」とはっき りと明言されました。主は私たちが直面している現実の厳しさや苛酷さを深く 理解されていたのです。その後、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に 世に勝っている」と力強い言葉を続けられました。ゆえに、私たちは将来につ いて強い確信を抱くべきです。現実がいかなるものであったとしても、主を信 じる者には敗北や滅びはありえない事を信じる事です。そして将来に対しても 恐れてはなりません。「なぜ?」というよりも「いかに?」と問いましょう。 主はいかにしてはこの状況を恩寵に変えられますか?と祈りましょう。「私た ちは、あなたのために、一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られてい る」と書いてあるとおりです。
「しかし、これらすべてのことにおいて、私たちは、私たちを愛してくださる 方によって輝かしい勝利を収めています。私は確信しています。死も、命も、 天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い 所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、私たちの主キリ スト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできない のです。」 (ローマ書 8:36〜38)。



2005年5月22日

「すべてを満たす主」

牧師 犬塚 修

私の神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたが たに必要なものをすべて満たしてくださいます。 フィリピ4:19

「これは、今、私が急いでしなければならない事だ」と思いこみ、何とかしよ うとしても、焦るばかりで、何もできず、時間だけが空しく過ぎていった時が ありました。私はもう一度「これは今、すべき仕事か?」と、顧みた時、ハッ と気付いたのです。その仕事は、実は何があってもしなければならない訳では なく、明日でも明後日にしても構わない事に過ぎないと分かったのです。私は 過重な仕事を抱え込み、アクセクしていた訳です。「今、この時になすべき事 だ」と、なぜ私はギュウギュウと自分を瀬戸際に追いやっていたのかでしょう か。それは自分の思い込みによりました。この失敗の苦い体験から、つくづく と教えられた事は、「今、これもあれもするべき」という自分勝手な決めつけ は、自分を苦しめる根本的に原因になるという事でした。上記のみ言は「神は …あなたがたに必要なものをすべて満たしてくださいます」と明記されていま す。このみ言を本気で信じる事です。何事においても、主の絶大な助けを信じ 、自分の行いにより頼まず、すべてを主にまかせて、ホッとして生きる事の重 要さを思います。この世では「それはお前の責任だ、遅れるな、何をモタモタ しているのか。しっかりせよ。」という勇ましい励ましの言葉が飛び交ってい ます。しかし、その言葉が私たちの人生を狂わせる場合もあるのです。多くの 場合、もっと生きる事にリラックスして、「これをするのは後回しで良い。ど うしても今日しなければならないという事ではない。」というゆだねの信仰を もう一度回復したいものです。



2005年5月29日

「恐れるな」

牧師 犬塚 修

恐れるな イザヤ書54:4

「月夜の晩に、ボタンが一つ 波打際に、落ちていた。それを拾って、役立て ようと、僕は思ったわけでもないが なぜだかそれを捨てることに忍びず、僕 はそれを袂(たもと)に入れた。それを拾って、役立てようと、僕は思ったわけ でもないが 月に向かってそれを抛(ほう)れず、浪に向かってそれを抛(ほう) れず、僕はそれを、袂(たもと)にいれた。月夜の晩に、拾ったボタンは、指先 に沁み、心に沁みた。月夜の晩に、拾ったボタンは、どうしてそれが、捨てら れようか?」(月夜の浜辺 萩原朔太郎)
この静かな詩を読むと、私は圧倒的な迫力で神の愛がしみじみと心に沁みてき ます。「ボタン」は私たち人間の事を暗示しているようです。詩人は浜辺に落 ちていたボタンを惜しみましたが、神はそれ以上に、私たちを惜しみ、どうし ても捨てる事ができません。それはただ無条件にいとおしいのです。私たちの 人生は「月夜の浜辺」に似ている一面があります。自分にはどうしても理解で きない悲しい出来事が起こったりして、心は荒涼とした月夜の浜辺のような寂 しさの状態になる時があります。しかし、愛の神は私たちと共におられ、私た ちというかけがえのない人を愛し、自分のふところにしまいこみ、決して捨て ようとはされません。たとえ、私たちが深刻な空虚感や孤独感に襲われても、 神は私たちの最強の、最高の、最大の、最後の助け主なのです。従って恐れな いで、共に主を信じて生きましょう。「あなたの造り主があなたの夫となられ る。その御名は万軍の主。あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神、全地の神 と呼ばれる方。…主はあなたを呼ばれる。…あなたの神は言われる。わずかの 間、わたしはあなたを捨てたが、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄 せる。」(イザヤ書54:5〜7)


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