巻頭言
2004年5月


2004年5月2日

「教育と主の恵み」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

定められた時のために、もうひとつの幻があるからだ。それは終わりの時に向 かって急ぐ。人を欺くことはない。たとえ、遅くなっても、待っておれ。それ は必ず来る、遅れることはない。見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえな い。しかし、神に従う人は信仰によって生きる。             ハバクク2:3〜4

数年前、世界で輝いている名ピアニストの一人であるヘミング・フジ子さんの 自伝的ドラマを観た事を思い出します。ドイツで、数十年にも及ぶ筆舌に尽く しがたい苦しみを体験された悲劇の人でした。しかし、フジ子さんが試練とい う熱い炉の中で練られることで、余分なものがそぎ取られ、生きる悲哀や痛み 、傷や歓喜などが溶け合って、深み、凄み、優しさを増し、妙なる調べを奏で る人に変えられていった内容に深く感動いたしました。そして、自分の演奏は 人からの賞賛を得るため、また名声を博するためではなくて、ただ自分自身が 純粋に音楽を喜び、神を賛美し、その結果として、傷ついた人々が癒されるた めにあるという真理に気付かれたのでした。最愛の母親を失い、悲嘆のうちに 教会で祈りを捧げてのち帰る際、ふと目にとまったのが上記の聖言でした。こ の瞬間、彼女の目に光が宿りました。この時から、フジ子さんの人生は大きな 転回をいたします。それまでの苦労がすべて祝福に変えられていったのです。 確かに、神様が苦しむ者ために用意しておられる恵みは無限大のものです。た とえ、今は、その恵みが感じられなくても大丈夫です。決して焦らず、しっか りとみ言葉に立って、希望と信仰と夢を持ち続けるならば、主の祝福は必ず訪 れます。なぜならば、慰めの主は私たちの心をよく存知の祝福の神だからです 。ゆえに私たちは臆することなく、主の恵みを確信して前進していきましょう 。自分の弱さも恥じないようにしましょう。「わたしの恵みはあなたに十分で ある。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、 キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇 りましょう」(コリント二12:9)とあります。喜びと確信に生きることです。



2004年5月9日

「母の日」を覚えて

牧師 犬塚 修

あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地 に長く生きることができる。 出エジプト記20:12

ひとりで

わたしのために独りで祈ってくれた母 わたしのために独りで心配してくれた 母 わたしのために独りで苦労してくれた母 わたしのために独りで忍耐してくれ た母 わたしのために独りでかばってくれた母 わたしのために独りで泣いてくれた 母 わたしのために独りで教会に行ってくれた母  わたしのために独りで洗礼の支度をした母

待つ

小学校から中学校から わたしがどんなにおそく帰っても 門口でいつも待っ ていてくれたのはお母さんであった  天国の門へ わたしがどんなにおそく 着いてもいつまでも待っていて下さるのは 主イエスさまである。 (河野進 詩集「今あなたは微笑んでいますか」)

母は主イエス様の愛を最もすばらしく、あざやかに表す存在であります。子供 を思うその愛は大空の広さに、無条件に受け入れる優しさは大海に似ています 。心が空しくなり、フト、ふるさとを想う時、同時に母との思い出にいたりま す。人生の砂漠の中で、喉が渇ききり、オアシスの水を求めたい時、私たちは 母のまなざしを想起します。確かに、母は神の無尽蔵の愛を教えてくれるので す。その愛に心から感謝したいものです。私たちの神は父性に満ちたお方です が、同時に母性においても豊かです。父の厳しさと母の慈愛が完全に溶け合っ ているのが、十字架です。神は父として、私たちの罪を厳しく弾劾するため、 愛する御子を人類に送られました。しかし、神は同時に私たちの命を地獄の責 め苦から救い出すために、罪の責任を私たちの要求せず、愛息のイエス様を死 に渡されました。それは、まさに優しい母のようにして私たちを赦すためでし た。



2004年5月16日

主の恵みに感謝して

牧師 犬塚 修

そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子 は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものと して人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ御手によって造られた ものをすべて治めるように、その足もとに置かれました。         詩篇8:5〜7

日々、いろいろな難しい問題が起こっても、ともかく今、体が支えられて活か れていることは、主のすばらしい恵みであることを感謝したいものです。私た ちは日々の営みをありきたりとか当たり前と考えがちですが、実は、主の大変 な犠牲によって与えられた大きな恵みと気付きます。先日、映画「パッション 」を観ました。そこに描かれていたのは激しい苦痛に耐えられるイエス様のお 姿でした。人間の罪の深さ、おぞましさがこれでもか、というくらいに描かれ ていたのです。主が人間の罪のために、血へどを吐き、鞭打たれ、棒きれのよ うにズタズタにされたのです。私自身、この愛に対して、いつしか無感動、無 感覚になり、感謝を忘れてしまっていないかと心探られたことでした。モラビ ア教団の創始者ツッツェンドルフはイエス様のむごい十字架の絵を見て、「私 はあなたのために死んだ。あなたは、わたしのために何を捨てましたか?」と いうイエス様の静かな問いが聞いたと伝えられています。そして、彼は貴族と いう恵まれた境遇を捨て、イエス様と共に生きる決意をしたのでした。私たち の使命は主の召しに応えて、誠実に応答する生き方にあります。まず今、活か されていることを感謝することから始めることです。毎日を無目的に、無為に 過ごすのではなく、また主を悲しませることなく、むしろ主に喜ばれる生き方 を選び取る事です。今、少なくても、元気に暮らせること、食べるものは与え られていることを感謝すると、次の導きの門が開いていきます。感謝が不足し てくると、信仰も弱くなってしまいます。主は私たちに御心を留め、顧み、栄 光と威光を与えて下さいました。ゆえに、現在も将来も感謝して生きることで す。



2004年5月23日

星のように

牧師 犬塚 修

目覚めた人々は大空の光のように輝き、多くの者の救いとなった人々はとこし えに星と輝く。                    ダニエル記12::3

「この世を最も益するのは、結局のところ、落ち着いた静かな生活である。彼 らは恒星のようである。定められた場所にとどまり、神の与えて下さる光をも って輝いているのである。流星は、すばらしい輝きをもって、大空を流れくだ り、私たちは叫び声をあげて驚嘆する。しかし、流星が失せ去ったのちも、長 く、恒星はなお輝き続け、私たちを導くのである」(「山頂をめざして」L. B.カウマン) 主なる神に対して、星のような静かで忠実な生き方を貫いてい る生き方はすばらしいものです。 私たちは日々、騒々しさ、忙しさ、喧騒に 巻き込まれ、自分を見失う恐れがあります。 また精神的な焦燥感は私たちを 疲れさせます。主のみ前に静まり、瞑想し、祈りに生きる事はとても大切と思 います。その生き方は夜空に輝く恒星に似ています。F・ミレ−はパリの享楽 の世界から、離れ、人里はなれた寒村に身を寄せました。そこで、彼の目が開 かれたのです。彼は静かに生きる中で、神と深く交わって生きるようになり、 その喜びが「種まく人」「晩鐘」などの絵に描き出されました。神と交わり、 賛美し、祈りつつ、細かい金や銀の糸を紡ぐかのように、魂の叫びを表現して いきました。彼は流星ではなく、恒星として生きたのです。その魂に宿ったも のは、創造主に対する畏敬の念と感謝の心でした。確かにミレ−は生まれ変わ ったのです。今から3000年前、ダビデでは次のように歌いました。「主よ、わ たしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎるこ とを。わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしは魂を沈黙さ せます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします」 (詩篇131:1〜2) 星はいつもほほえんでいます。暗黒の空でも、変わる事なく 光り続けています。周りが暗ければ暗いほど、その光の価値は増すのです。北 極星は孤高の存在に見えます。しかし、そのたえざる一条の光は、無数の旅人 たちに行先を指し示したのです。



2004年5月30日

神の台本どおりに

牧師 犬塚 修

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、 キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 テサロニケ一5:16〜18

今月、カンヌ国際映画祭の最優秀男優賞をさらったのは、日本の14歳の少年でした。 このビッグニュ−スに世界中が驚きの声をあげました。彼は一生懸命に台本を覚え、 その役になりきり、それが新鮮な感動を与えたのでしょう。このことから私大変教えられ た気がします。つまり、私たちの人生も、神から一つしかない台本が手渡されていて、 その与えられた役割(使命)をいかに真剣に生きるかが問われていると思ったのです。 神を信じる前は、そんな考え方をした事はなく、むしろ、自分勝手に生きていました。 しかし、そのような生き方を続けていると、空しさと孤独感が襲ってきたことも事実です。 当時は、神様を信じないで生きる事が自由と思っていましたが、あとで、それは放縦に すぎないと知らされました。野球の選手は監督の命令に従います。そのように人間も 生ける神に従う事で、本当の自分を取り戻すようになるのです。私たちがこの世に生 まれてきたのは、神の台本を受け取って、意義ある人生を送るためです。そして、その 台本には生きるために重要な土台が書かれています。それが「いつも喜びし、祈り、 感謝する」生き方です。いかに辛いことがあって、ほほえみを絶やさず、神に祈りつつ、 いかなる事も感謝する生き方です。ここには絶望感や逆境をはね返す力があります。 そして私たちに対する神の台本の結末は豊かな祝福です。「わたしは、あなたたちの ために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、 災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。そのとき、あなたたちがわたしを 呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」(エレミヤ書29:11〜12)とあります。強 靭な精神と純粋な信仰を抱いて、力強く生きていきたいものです。


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