巻頭言
2003年5月


2003年5月4日

「伝道と摂理」月間迎えて

牧師 犬塚 修

ヨセフは兄たちに言った。「恐れることはありません。わたしが神に代わるこ とができましょうか。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを 善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。  創世記50章19節

神の「摂理」信仰に立つと、どんな時でも、神の聖なる愛の支配を確信しますの で、もう過去の呪縛に苦しまずに生きることができるように変えられます。しか し神の摂理を疑ってしまうと、心は非常に苦しくなり、立ち直ることが困難とな ります。W・スタイロンの著書「ソフィ−の選択」は残酷です。ソフィ−はナチ ス党員によって、子供の内のどちらか一人を連れて行けと命じられます。そのこ とを一瞬のうちに決断しなければならなかったのです。戦後、ソフィ−は残した 子供のことで罪の意識に苦しみます。そして、後にある男性と一緒になり、彼に 殺されるという痛ましい結末になります。おそらく残した子供への償いとして死 にたかったのかもしれません。「愛するということ、愛されるということ」の著 者レオ・バスカリヤは次のように書いています。「自分のあやまちについて自分 自身をゆるすことも、時には他人を許すことと同じくらいむつかしい」と。私た ちが罪の償いにとらわれているならば、いつまでも苦しみは続きます。完全な償 いなど私たちにはできません。できないから、その償いを主イエス様がなしとげ て下さったのです。私たちは自分の心の重荷を十字架のもとに携え、もって来な ければなりません。何度も何度もです。主の十字架は私たちにとって罪意識から の解放をもたらします。確かに主が私たちの罪のために死なれたのです。もう自 分を責めることをやめましよう。すべては十字架で終わったのですから。「すべ ては終わった」と主は最期の瞬間に叫ばれました。旧約に登場するヨセフも少年 時代、苦しい目に遭いましたが、後日、あの耐えがたい苦しみを神は、驚くべき 善に変えてくださったという愛の摂理を信じて生きぬいたのです。



2003年5月11日

「神の摂理に生きる」

牧師 犬塚 修

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。    ローマ11:36

「成功は99%の失敗に支えられた1%だ」「世界のホンダ」として有名な本田宗一郎の 言葉です。また次の一文にも励ましを受けます。「トライアンドエラ-を繰り返すことが、 <経験>と、<蓄積>になる」(ソニーの井深大)。私たちは何度も試み、エラ-を重ね ることで、将来のために豊かな学びをしていきます。エラーもしないような生き方には またョ勝利もないでしょう。どんな苦しみも失敗も恐れず、無策に陥らず、また過去にこ だわらず、神の栄光を輝かす目的をもってまっしぐらに前進することです。私たちは過去 を変えることはできません。ただ変えられるのは、今と将来だけです。苦しみの中で、 主の御名を呼びつつ前進することが信仰の道なのです。ダビデの子アブサロムは外見ば かりを気にした不信仰、不決断の人でしたが、彼の運命は悲しいものとなりました。    どうしたら、力強い生き方ができるのでしょうか。神の摂理を信じ、すべての道で主の ご支配を確信することです。広辞苑によると「摂理」とは「@すべおさめることA代わ って処理することB神…が人の利益をおもんばかって、世の事すべてを導き治めること、」 とあります。私たちは失敗や過ちを、たくさん犯してしまったり、苦難や試練が押し寄せ たりもします。しかし、恵みに満ちた神が私たちに与えられるものはすべて良いものなの です。摂理信仰を身につけると私たちは気楽な生き方ができます。なぜならば、神がすべ てを治め、万事を益に導かれることを分かっているからです。従って、無理をしたり、必 要以上に心配したり、思い煩うこともなくなります。時々襲う試練を通して、私たちの弱 さは鍛えられて、日々信仰が強くなっていくのですから。主のみを畏れ敬い、将来に向か って前進していくことです。「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そう すれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」



2003年5月18日

「ただキリストを思う」

牧師 犬塚 修

彼の代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。彼の名は、「主は我らの救い」と呼ばれる。  エレミヤ23:6

「信仰は…あの高貴な宝石であるキリストイエスのほかには何も気遣わないことである」(マルテ ィン・ルター)周りに気を遣いすぎて疲れきってしまう事は良い事ではありません。また自分の状 況に一喜一憂して思い煩う事も辛い事です。私たちはこの世に生きているのではなく、実は主のう ちに守られ大事に隠されているのです。「上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれない ようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠さ れているのです」(コロサイ3:2)それは何にもとらわれない平安な生き方です。私たちは日々、高貴 な宝石のようなキリストを主と仰ぎ、全き罪の赦し、何があっても変わらない絶対的な心の平安、永 遠の命、また美しい天国に住むという約束を与えられています。創世記のヨセフは暗い牢獄の中にても 、その心境は「牢獄は宮殿のごとく、処刑台は王座のごとく、人生の嵐は春の日のごとくなりえる」 (バ−クレイ)ものであった事でしょう。私たちが「前に見るものが未来」と考えがちですが、未来 はよく見えないので、心に不安と心配が押し寄せてきます。ヘブライ人は「過去(ケセム)とは前に見 るもの」であり、「未来(アハロ−ン)は目の後ろにあるもの」と理解しました。過去には一切を赦さ れるイエス様がおられます。どんな過去もイエス様によって、万事が益になるのです。私たちの人生 はボ-ト漕ぎに似ています。ボ-トが前方に進むためには、舵手が進むべき方向を指図し、漕ぎ手は真 剣に漕がねばなりません。私たちの人生の舵手とはキリスト、私たちは漕ぎ手です。私たちの未来の 方向を決定するのは、王なるキリストです。ゆえに私たちは未来について気遣ったり、心配する必要 が全くありません。主に任せて進むだけです。



2003年5月25日

「わたしは恐れない」

牧師 犬塚 修

神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。 わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも。  詩篇46.2, 3

「あなたの信仰が光を失い、あなたの心が暗くなり希望がかすむのは、すべて神が将来あなたの受 け継ぐべき大いなる資産にあなたを備えられるためである。これらの試練はあなたの信仰を試み、 強めるためである」(「朝ごとに」 C・・H・スポルジョン)
昨日はあれほど心は喜びがあふれていたのに…、今朝はどういう訳か希望が霧のように去り、空しさ とけだるさが押し寄せてしまうとは。以前は信仰と愛に生き生きと歩んでいたのに、この憂鬱は何だろ うかと頭を悩ます時はないでしょうか。そこにはサタンの誘惑が潜んでいます。サタンは私たちが無気 力感、無能感に襲われるように仕向けてきます。この目に見えない霊的な敵に打ち勝つためには、自分 の意志の力や自信に頼らず、ひたすら主により頼み、必死の思いで十字架を仰ぐということが有益です。 また、苦難の深い意味を悟ることです。私たちに起こる苦難は神のご計画の外で起こるのではなく、そ れは神の摂理の一部分です。船木選手のようにジャンパ―は強い向かい風を受けることで、より遠くに 飛んでいくことができるように、苦難という逆風も人生になくてはならないものと言えます。苦難の果 てに歓喜があるのです。何の苦しみもない人生ではなく、いろいろな苦しみを経て、私たちは成長を遂 げていくのです。苦しみを味わう事で、イエス様の十字架の愛と痛み、また復活の輝きに至り、心は歓 喜と深みに導かれていきます。何も恐れないことです。主にすべてをゆだね、無心になって主に従い、 恐れの念からも解放される事です。「大丈夫!愛なる神の永遠の守りは絶対だ」と確信して生きたいも のです。たとえ自然が崩れ去ろうとも、神は永遠に共におられます。


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