巻頭言
2002年5月


2002年5月 5日

 「礼拝と訓練」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になる とそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。 (ヘブライ12:11)

 一生懸命にがんばってようやく作り上げたものが、わずかのミスですべてが無駄になる事がありま す。そんな時は心底ガッカリします。再び同じような努力を積み上げねばならないと分かると、気が 滅入ってしまいます。イギリスの哲学者カーライルは、長年苦労を重ねててついに膨大な量の原稿を 書き上げました。そして喜び勇んで、友人のミルの家に急いだのでした。ミルはその労作を預かって、 自分の机の上に置いていたのですが、女中がそれを紙屑と間違えて、暖炉の火で燃やし灰にしてしま ったのです。それを知ったカーライルは茫然自失となりました。しかし、彼は再び不死鳥のように立 ち上がり、ペンをとったのです。そして、それから何ヶ月もかけて、ついに完成したのが「フランス 革命史」という名著でした。それは、以前のものよりも、霊感に満ちた作品としてよみがえったので す。どうしてこんな事が…と重い吐息をつきたくなるような試練に出会う時でも、私達はただ失望す る事なく、主の栄光が更に豊かになされるための訓練として受け止める事が肝要です。主イエス様に あっては、人生に無駄な事などあろうはずがありません。ダイヤモンドは原石のままでは、何の価値 もありません。しかし、研磨機で何度も磨かれる事で、余分なものがそぎ落とされ、美しい宝石とし て輝くのです。無上の音色を奏でるバイオリンがありました。なぜそのような音色が出るのか、皆不 思議がったといいます。実は、このバイオリンの一ヶ所が傷ついており、それが微妙な音を生んだと 分かったのです。私達も様々な試練で、傷つけられる事があっても、そこがすばらしい魅力を生む要 素となっていくと確信し、喜んで、主の鍛練や訓練を受け、すべてを感謝していきたいものです。




2002年5月12日

 子供の日、母の日を覚えて

牧師 犬塚 修

主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることを、わたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません。わたしは魂を沈黙させます。わたしの魂を、幼子のように、母の胸にいる幼子のようにします。 詩篇131:1〜2

ルネサンスの天才ミケランジェロは、大巨人ゴリアテに素手で立ち向かう少年ダビデ像を彫り刻みました。その像の凛とした気高さ、勇猛さは、苛酷な運命に抗して敢然と立ち向かう芸術家であった彼の心境をあますことなく表しています。彼にとってダビデは理想的な信仰の勇者でした。確かに少年ダビデは私達人間の理想の姿を示しています。主への信仰の単純さ、素直さ、一途さ、純粋さは私達の模範です。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」(マタイ18:3〜5)私達は徹底的に、神のみ前に幼子となり、また弱い兄弟姉妹を受けいれ、共に連帯して生きる事です。もう一つは、ダビテが神に母親のような温かさを感じていた点があげられます。モ−セにとって、神は愛に富む父親のようでした。しかし、ダビデは神の母性を信じていた事分かります。彼は自分を幼子としてとらえ、神に甘えました。ここに、ダビデの自立に至る強さが隠されていました。神に甘える人は人に依存しないで生きるようになるのです。なぜならば、神の愛に満たされて、心満ち足りるようになるからです。「わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います」(詩篇16:8〜9)




2002年5月19日

 ペンテコステ礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

あなたは、わたしの魂を陰府に捨てておかず、あなたの聖なる者を朽ち果てるままにして おかれない。あなたは、命に至る道をわたしに示し、御前にいるわたしを喜びで満たして くださる。
使徒言行録2:27〜28

フジコ・ヘミングさんはまれに見る名ピアニストです。今や世界にはばたく人物ですが、 その過去は苦渋に満ちたものでした。16才の時、右耳が聞えなくなり、留学先のドイツ では、一週間、砂糖水しか飲めないという極貧の生活をし、ようやく30才半ばで世から 認められるようになりましたが、今度は両耳が難聴となったのです。しかし、かすかに残 された聴力を大事にして、練習に励み、ついに世界的な高い評価を受けるようになりまし た。それは60才を越えてからのことでした。その指先から流れ出る音色は、激しく人々 の魂を揺さぶるものです。神はこの人を見捨てられませんでした。その苦しみや悲しみ、 貧乏、痛みのすべてをプラスに変えられました。むしろ、そのような試練のすべてがフジ コさんの人格の中に独特な光輝を与えたのです。この人は神から自らに与えられた力をか たくななまでに信じた人でした。人の魂に感動を与える神聖な力は、人生の嵐を体験し、 苦しみに耐え抜いた人に与えられる神の特別な恩寵であるとつくづくと思わずにおれませ ん。人生に創造的な力を与えられる天地創造の神を信じる私たちは、その無限の祝福と愛 を疑わず、あくまでも信じ続けることが、とても重要です。
ペンテコステ礼拝は偉大な出来事を起こされる神の霊(聖霊)が私達に臨まれる出発の時で す。弱かった弟子達が見違えるような人物に変貌を遂げたのは、ひとえに、聖霊の力によ りました。彼らは、喜んで、聖霊を受けいれ、命の道を確信して、信仰を選び取りました。 「霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いな さい。」(エフェソ5:19)・聖霊に満たされた時、私達は輝きわたるのです。




2002年5月26日

 主の訓練として耐え忍び

牧師 犬塚 修

あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神 は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練 と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
第一コリント10:13

「韓国の土を踏めたことに対し、まず、神様に感謝したい。次に北からの脱出を助けてくれ た人々に感謝したい。…今はすべてを許し、嫌な気持ちなど持っていない」」(朝日新聞5月 23日)これは昨今、私達の心を騒がせた中国の総領事館における亡命事件で、五人の人達 が自分たちのいのちが守られたことに対しての感動的な談話です。命がけの逃亡は、恐怖と の戦いであった事でしょう。そして、ついに、このような良い結果になった恵みを「神様に 感謝します」というその真実な態度に私自身感動した事でした。
私達も苦しい出来事にあい、心身共、疲れ果てる時があるかもしれません。しかし、彼らの ように、断じて絶望せず、いのちを主にゆだねて、決死的な行動をとるならば、神はふしぎ な助けを与えて下さいます。彼らはおそらく死を覚悟していたでしょう。どうしようもない という危機的な最悪の時、私達は死の恐怖が襲いかかります。そして恐れおののき、足がす くんで動けなくなるかもしれません。けれども、そこで、神様に祈り、従うならば、必ず道 が開かれていくのです。もし、彼らが何もしないで、あきらめていたならば、今回のような すばらしい助けはいつまでも与えられなかったでしょう。:「わたしの僕モーセは死んだ。 今、あなたはこの民すべてと共に立ってヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与 えようとしている土地に行きなさい。 モーセに告げたとおり、わたしはあなたたちの足の 裏が踏む所をすべてあなたたちに与える」(ヨシュア記1:2〜3)ヨシュアは師であったモ− セから自立し、主の僕として前に向って歩き出したのです。



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