巻頭言
2001年5月


2001年5月 6日

「創造主との交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を 動いていた。 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。(創世記1:1〜3)

若葉が萌える時節となりました。鮮やかな色彩や伸びゆく生命力を見ますと、神の創造のすばらし さに深い感動を覚えます。聖歌480番は「輝く日を仰ぐ時、月星ながむる時、いかづち鳴りわたる時、 まことのみ神をおもう、わが魂、いざたたえよ、大いなるみ神を」とあります。天地創造の神は無か ら有を呼び出されました。そしてアブラハムは「彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を 呼び出される神を信じたのである。」(ロ−マ4:17口語訳)私達もアブラハムのような信仰を熱く持 ちたいものです。神は無に等しい者に対しても、豊かなあわれみをもって祝福し、新しい導きとくす しいみわざを用意して下さる全能のお方であることを確信しましょう。葉が茂っていくように、自然 は成熟をめざして成長し続けます。同じく主のみわざも日毎に変わっていきます。「このほとり、その 岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は絶えることな く、月ごとに実をつける。…その果実は食用となり、葉は薬用となる。」(エゼキエル「47:12」確かにこ の世界は偶然に出来上がったものではなく、神が聖なるご計画をもって、創造されたものです。最初 は、大地は混沌と闇の世界にすぎませんでしたが、神のみ声が響き渡り、平和と光が輝く世界と変え られました。無に等しかった地に秩序と平和が確立されたのです。神を信じて生きる時、私達の人生 に、同様な新創造のみわざが始まります。眠っていたものが起き上がり、霊的に死んでいた者が生き 返ります。そして全世界に主を知る知識があふれるようになっていきます。ハレルヤ。  




2001年5月13日

母の日を迎えて

牧師 犬塚 修

主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう。平和を大河のように、 国々の栄えを洪水の流れのように。あなたたちは乳房に養われ、、抱いて運 ばれ、膝の上であやされる。 母がその子を慰めるように、わたしはあなたた ちを慰める。 (イザヤ66:12〜13)

今朝、私達は母の日を迎えました。母性は神に由来します。その温もり、優しさ、 愛は神の性質をよく表しています。私達は、疲れた時、幼い時に味わった母の膝の 暖かさを思い出し、再び生きるエネルギ−を取り戻すのではないでしょうか。イザ ヤにとって、神は恐ろしいお方ではなく、母のように無条件に愛して下さるお方で した。人はありのままで受け入れられ、愛されることで、自分を取り戻すことがで きます。「こうしなさい、ああ、しなさい。そうしないと、愛さないよ。」と言われ るならば、私達はビクビクした人の顔色をうかがって生きるようになります。しかし、 神は私達を抱きしめ、そのままで良い、裸のままで良いと優しく語りかけられます。 ここに私達の希望があるのです。ヤコブの母リベカは自分に呪いがかかることも恐 れず、命いのちがけの行動に出ました。確かに、エサウの事を考えたり、又、道徳的 な側面から言うと、問題があるようにも感じるのですが、一途にヤコブのことを思う 愛には、胸打つものがあります。彼女は一命を捨てても良いと覚悟をしていたのです。 イエス様の十字架は、さらに驚くべき愛でした。私達のすべての罪を背負って、呪い の刑罰を受けられたのですから、これは、至高の愛そのものです。その犠牲の愛によ って、私達は愛され、赦されたのです。この事実を確信し、人生を前向きに肯定的に とらえる時、豊かな祝福の人生へと突き進んでいくのです。  




2001年5月20日

見ないでも信じる

牧師 犬塚 修

イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる 人は、幸いである。」(ヨハネ20:29)

トマスはイエス様に深く愛された弟子でしたが、疑う一面がありました。他の弟子 達が「主は甦られた!」と大喜びしている時でも「私は信じない」と頑固に言い続けま した。彼は自分の見たものしか信じられなかったのです。その意味では、トマスは 最も現代人に似ていると言えます。私達は不慮の出来事で、心騒いだり、動揺しし たりして、恐ろしい不安に襲われ、いても立ってもおられなくなり時はないでしょ うか。、そして思わず、祈りや聖書のみ言葉も忘れて、バニックになりやすいので す。中々、泰然自若とはいきません。そんな危機的な時こそ、どっしりと構え、主 を信じて「すべては益に変えられる全能の主よ、信じます。」と明るく言えたら最高 なのですが、強烈な現実を目のあたりにしますと、心が萎えてしまうものです。しか し、愛に満ちた主はそのような私達を深くあわれみ、すばらしい助けと救いの御手を 差し伸べられます。疑うトマスに対して主は現れて下さったように、不安の虜になっ ている私達にも、すばらしい奇跡的なみわざを示されます。私自身、自らの人生を振 り返りますと、主の奇跡の連続であったという気がします。主は時に叶ったふしぎな 方法で、確かに助け守り続けて下さいました。それは皆さんの同様と確信します。私 は主の鮮やかな救いを目撃して「ハレルヤ、感謝します」と主をほめたたえるのですが、 本当はまだ見ないで信じるほうがもっとすばらしい事であると、つくづくと悔い改め ます。なぜならば、一々、救いを確認してから喜ぶよりも、まだ何を見ないままで感 謝するほうが信仰の醍醐味だからからです。元来何でも自分の目で、確認する事は不 可能です。ただ信じるだけで平安に満たされたいものです。




2001年5月27日

後から来る祝福

牧師 犬塚 修

さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が 横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなり たいか」と言われた。(ヨハネ5:5〜6)

何と38年間もベテスダ池にて癒しを求め続けたこの男はギネスものと言えます。 普通ならば、こんなに長く同じ所に留まる事はなく、ここはだめだと諦めて別の 所に移って行くものです。彼はイエス様によって癒されますが、別の角度から見 て、一つの願いを決してあきらめようとしなかった生き方にも、大いに教えられ ます。彼は今まで、多くの友が元気になって狂喜しながら、その場を去って行く 後ろ姿を見送ってきた事でしょう。後に残ったのは取り残された者の悲哀と痛み だけでした。しかし、聖書の「後の者は先になる」というみ言のように、彼こそが 最後の最後にイエス様から最高のプレゼントを頂いた特別の人となりました。 主を信じる人にとっては、空しく、無駄な時というものはありません。一つ一 つが将来の祝福の布石と変えられます。誰よりも数多くのマイナスを経験した 人は幸いです。なぜならば、すばらしい祝福がその人を待っているからです。 神は悲しむ人を決して見捨てられません。時が満ちた時、自ら近づいてこられ ます。主は私達のために新しく救いの道、解放の門を準備されます。それは、 忍耐して生きた人でなければ得られない特別な祝福です。私はつくづくと思う のです。人知れず苦労を体験し、いやな目に遭った人は、実は深く神に愛され た人であると。それによって、将来訪れる祝福が倍加するからです。断食した 人は一杯のおかゆがどんなごちそうよりも美味しく感じられる事と似ています。 今を喜び、感謝しましょう。病も苦労も悲しみすらも感謝しましょう。「わたし の神は、御自分の栄光の富に応じて、キリスト・イエスによって、あなたがた に必要なものをすべて満たしてくださいます」(フィリピ4:19)。



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