巻頭言
2000年5月


2000年5月 7日

「一致と伝道」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、 平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つように努めなさい。(エフェソ4:2〜3)

私たちにとって、伝道は最大の使命であり、また喜びです。さて、このワクワクする 使命を果たすためには、自力ではなく、主の祝福が不可欠です。では、どうしたらそ の祝福を得ることができるでしょうか。

パウロはそれは「霊による一致を保つ」こと にあると言っています。「すでに一致はある」という確信です。普通は「中々、私た ちの交わりには一致がないので、何とか力を合わせて一致をめざそう。」となりやす いのです。しかし、その考えが善意から出たものであっても、危険性が潜んでいます。 それが今の現実を否定的にとらえている点です。

パウロは「今や、恵みの時、今こそ、 救いの日」(6:2)と断言しています。現実の否定は聖霊による支配の否定につながりま す。また、自分が感じた印象を正当化します。そこから、不満、愚痴、非難の思いが 雑草のようにはえ、信仰をおびやかします。たとえ、私たちの交わりが理想的でなく ても、それをも感謝して受け止める時、私たちは今まで気づかなかった恵みが見えて きます。聖霊の支配の中で現実を今一度見つめ直すことです。パウロにとって一致と は恵みであって、人間的な努力の結果ではありませんでした。

私たちが本当に恐れね ばならないことは、「高ぶり」です。「自分がする」のではなく、「主が自分にして下さ る」ことを信じることです。 そこから謙遜さ、その柔和さ、寛容さが生まれます。た とえ最悪の状態の中でも、そこに、神の愛と赦しを見、また聖霊による一致を信じる 時、聖霊による新しい改革が開始します。そして共に喜んで伝道する生き生きとした 力を得ます。この5月は M・バラバの特別集会が計画されています。聖霊の一致を保 ち、命がけで取り組み祝福に与りましょう。  




2000年5月14日

教会の持つもの

牧師 犬塚 契

イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください(ルカ23:42)

聖書の中に記されている信仰告白のなかでも、この信仰告白が特に心に残る。2000年 前のイスラエル、誰もがイエスは死んでもう終わりだと思い、旧約聖書で預言された救い 主だと信じる者はいなかった。

イエスは、今その短い生涯を閉じようとしている。次第に 息も荒くなり、血と汗がしたたり、凝固した血がドス黒く体中に飛び散り、屈辱のいばら の冠が頭に食い込んだ。まもなくローマの死刑囚としてこの世から永遠に姿を消すのは明 らかであった。イエスが愛してやまない弟子たちは自分の命を守るため逃げ、散っていっ た。世界で最も憐れな犯罪人イエスに一人の強盗は、信仰を告白するのである。 「御国においでになるときには…」。最も救い主として信じが たい時に、イエスをキリスト(救い主)として信じ、必ずや来たる御国に期待を抱いたの である。彼は人類史上、一番早くパラダイスを約束された者となった。

日本では犯罪の凶悪化、異常化、低年齢化はますます進む。幼いときから、人間は猿の延 長線上で生まれ、まったくの偶然の産物で、ドブにわくボウフラと何ら変わりないと教え られれば、創造主のさばきが待つとは思いもよらない。死んだらそれで終わりなら、やり たい放題で何が悪い!!となる。「5日しか命がなければ、銀行強盗をし、先生を刺し殺 し、お父さんをぶっ飛ばす」と書く小学生の気持ちを察しねばならない。彼らにとっては 死んだらそれで終わり、御国などないのだから…。

新興宗教の代表は逮捕され、世界で最も豊かな日本で常軌を逸した事件が起きる。この国に 必要なのは、偉い政治家よりも、立派な法律よりも、科学の進歩よりも、発達した文明より も、神の恵みの福音である。教会が持っているものはそれだけである。福音を伝えるべく、 今月は特別伝道集会が予定されている。  




2000年5月21日

いのちの喜びについて

牧師 犬塚 契

「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、 その民主に養われる羊の群れ」(詩編100:3)

「目立ちたかったから」 バス・ジャック事件を起こした17才の少年は犯行の 動機をこう説明しました。少年は自分の人生を目立たない、つまらないもの と思い込んでいたようです。最近の少年による凶悪犯罪の背後には、根深い 自己喪失感と不安感があります。一体どう生きていったらよいのか分からず 「迷走」しています。彼らは自分に自信がなくなり、人生におびえ、絶望して死 を望みます。自分のいのちを偶然の産物ととらえるならば、生きることは、空 しいものとなるでしょう。そして他者のいのちにも価値を見出さなくなるのです。

しかし、私達のいのちは、神からのプレゼントです。神からいただくいのちによっ て、私達は生かされています。神を見失った現代人は、木の幹から切り取られた枝 のように弱々しくなり、自己喪失による不安に襲われています。つまり神と自分と の関係が切断されていることが元凶なのです。これが深刻な現代病です。神に 対する無関心さは自分や隣人への無視、冷酷さとなって返ってきます。

しかし 聖書は言います。人間のいのちは神に由来すると。私たちは神に創造された愛の 作品、また、主の牧場に戯れる羊の群れです。キリスト者は長い歴史の中で、 厳しい迫害を受ける時もありましたが力強く、生きぬきました。その秘訣は、 自分の力により頼まず、イエスキリストを自らの救い主と信じたところにあり ました。また自分のいのち、また心の居場所をしっかりとまことの神に定めま した。ゆえに虚無や絶望に至ることなく、むしろ、喜びにあふれて生きて来た のです。

私たちが真に生きるためには、今、まことの神であるイエス・キリスト と出会うことです。 このお方を信じる決心をする時、私たちは本当にいのちの 価値に目覚めていくのです。それはいのち輝くすばらしい人生です。 




2000年5月28日

この世界の中で

牧師 犬塚 契

わたしがあなたがたを世から選び出した。…人々がわたしを迫害したのであれば、 あなたがたをも迫害するだろう。(ヨハネ15:19〜20)

先週の木曜日、衆議院議員会館において「教会と国家」第一回研究会が行われ、 行く事が出来た。冷戦期のチェコと現代ロシアを手掛かりに「教会と国家」の バランスとは何かを、クリスチャン外交官がお話して下さった。平塚の畑の中に 住む私としては、なんとも広い世界が広がっていることにただ関心するばかりであった。 時間が過ぎ最後の締めの部分、講師の先生が言った。「フィールドは世界である」。

教会は、自己充足的なおめでたい人々の集まりではない。教会堂の中のみで、完結し てしまうような集団ではない。物分りのいい人々が説教を聞き、お祈りをし、賛美歌を 歌い、気持ちよく人生過ごす場所ではない。教会は、隠れ家で終わらないし、狭い信 仰共同体ではない。いつだって、外に福音を知らせていく使命を担わされている。 そして、教会はいつだって世に光を放つものをもっている。

キリストは、あなた達も迫害に会うと言われた。迫害に会っても何も驚くなと言われた。 最近、迫害にあっただろうか?白い目で見られただろうか?キリストゆえに理不尽な扱い を受けただろうか?つくづく反省させられるのである。神様は、取るに足りなき者をあ えて選び、福音を託し、欠けだらけの土の器と知りつつもその尊い使命を与えられた。

教会のフィールドは世界に広がっていく。福音は平塚市真田474―4だけにとどまっては いないのである。



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