巻頭言
1999年4月


1999年4月 4日

イースター礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、 神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、 使徒と呼ばれる値打ちのない者です。(コリント一15:8,9)

これは、復活の奥義を壮大な宇宙スケールで論じる大祭司パウロの文章とは 思えない程、謙虚な一節です。しかし、ここにパウロの本質が見事に現れて います。彼は、復活の証人として力強く生きた人物ですが、同時に実にへり くだった信仰の持ち主でした。彼は自分のことを「未熟児」と呼び、かつ 「無価値な者」と言っています。

しかし、彼が生まれつき、自己否定的な おとなしい性格ではなく、むしろ大変な自信家であったようです。彼は 才気走った人、強情な性格の人でした。そのパウロが、これ程、へりくだって いるのは何故でしょうか。それは、キリストとの出会い、特に復活の主を 確信したからでした。彼は主によって変えられたのです。

主の復活は、 人間の無能、限界性を鋭く告げ知らせます。同時に、神の全能、永遠性、 無限性を明らかにしています。この真理を信じたとき、彼は歓喜に満ち あふれました。そして、キリストを知れば知る程、自分の小ささを悟り、 益々、へりくだるようになったのです。月は太陽の光線を受けて輝くように、 人は復活の光を浴びて、喜びに満たされるのです。そして、キリストの栄光 を知るに従い、心は解放されてゆき、心から、主に感謝するように成熟して いくのであります。



1999年4月11日

桜の花を見て

牧師 犬塚 修

最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、 死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。(コリント一15:52)

春爛漫のシーズンとなりました。ピンク色の桜花が咲き乱れ、その群生した花びら が青空に映えわたり、恍惚とした気分にさせられます。私たちは桜花の美しさに感 動を覚えずにはおれません。とりわけ、今年の桜は長く咲いていて力強く、生命力 に満ちているように感じます。桜の木は本当に不思議です。一年間の中で、わずか の期間間しか花を咲かせず、あとは、静かに沈黙して、夏秋、冬を迎えます。 しか し、私たちはこの木に魅了されます。この木は、春になると、突然、霊妙かつ豪華さ と絢爛(けんらん)、かつ清らかさの花を咲かせます。

また、この満開の時期が、ちょ うど復活の時とも重なっていることも不思議な気がします。私は思うのですが、桜の 木は主イエス・キリストのご生涯とどこか似ている気がします。主は約33年の歩み の後、十字架にかかり、三日目に甦られました。主御自身の力によってでなく、御父 によって、復活させられたのです。つまり、徹底的な受け身なのです。私たちの人生 の人生においても、徹底的に受け身となり、従順に神に従う時、復活の出来事が起こ るのです。そして私たちの人生にすばらしい果実や花が咲くのです。

私たちにとって 最高の喜びとは、復活のキリストと共に生きることです。地上の桜はわずかの時を経 たら、すぐに散ってしまいますが、天上の花(喜び)はいつまでも、私たちたちの心に 咲き続けます。丸一年、ジッと忍耐した結果美しく満開となるように、万一辛苦を味 わう日々があろうとも、必ず、大きな喜びへと引き上げられていくのであります。満 開の桜花は、力強くその真理を教えてくれています。



1999年4月18日

復活の命に生かされて

牧師 犬塚 修

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25,26)

復活の真理は、私たちに大きな希望を与えてくれるものです。なぜならば、今まで 死んでいる者が甦り、永遠の命に入り、喜びと至福の天国を待ち望むことができる からです。

ラザロは病気で苦しみつつ、ついに息を引き取りました。この冷厳な 事実を突きつけられた家族の者たちは、深い悲しみと絶望にとらわれていました。 そのような苦悩の唯中にキリストはおいでになり、そして力強く、「ラザロよ、 出てきなさい!」と叫ばれました。すると、驚いたことに、死んで四日もたち、 腐敗しかかっていたラザロが、復活したのです。

これは一体どういう意味を示して いるでしょうか。私たちにとり、病気も死も絶望への鉄鎖に見えてしまうのですが、 キリストはその呪いを解かれ、それらを祝福への門に変えられました。確かに主は 「私を信じる者は死なない」と断言されました。私たちの人生では、「絶望や失敗」 は克服され、今や新創造の希望が与えられているのであります。私たちは、キリスト の救いにあずかった者として、永遠の命が与えられ、復活のからだと変化するのです。 それは二度と死を経験することのない永遠の命の恵みの世界です。

その恵みを心底思う とき、私たちは、この世でいかなる悲しみや苦労があろうとも、その唯中にあっても、 主にある平安と喜びを奪われることはないのであります。主は自らの命を捨てて、この 永遠の救いを与えてくださいました。この復活の主の愛に応えて全力を尽くしてみわざに 励もうではありませんか。



1999年4月25日

パウロに学ぶ

牧師 犬塚 修

わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、 わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲 んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか。』ということになります。  (コリント一15:32)

パウロは復活の希望と喜びに満たされて、伝道に生きぬいた人でした。しかし、伝道す る際、決して自分の能力により頼むことはありませんでした。彼はひたすら主の復活の 御力を信じ「主が全てをなしとげられる。私は主の通り良い管にすぎない。」と謙遜に 自戒しました。日々死んでいくこと、即ち、自我を捨て、復活のイエス様の臨在を信じ ていたのです。ここにパウロの勝利の秘訣がありました。

もし彼が、肉的な思いで野獣(サタンのことと考えられる)と闘ったならば、疲れ果 て霊的にボロボロとなってしまったでしょう。パウロは、その激動の生涯において、色 々な試練と苦しみに直面しましたが、「主は復活されたから、私は大胆に恐れや不安を かなぐり捨てられる」と自己宣言しました。復活がなかったならば、私たちの日毎の労 苦は無駄、かつ空しいものです。しかし、確かに主は復活して、私たちと共に生きて働 いておられます。復活の生涯とは、自分の思いを絶対的とせず「主よ、御旨を教えてく ださい。私は従います。」と言って立ち上がる生活です。週毎の礼拝を堅く守り、主を 大牧者と信じて従うならば、必ず救いの道は備えられていきます。人間的動機や不安に 別れを告げて、一貫した純粋な信仰を貫きたいものです。

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