巻頭言
2024年4月


2024年4月7日

「イースターの朝と夕」

犬塚 修牧師

マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、 イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。 天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」 こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」 イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 <ヨハネによる福音書20章11-18節>

イースターは一年に一度祝うのではなく。毎日がイースターでありたいものである。毎朝、起きて朝日を仰ぐように、主の復活を信じ、その事実を喜ぼう。更に、夕べになると、一日を感謝し、主が「安かれ」と語られた愛を思い、感謝して眠ろう。▽朝ー−−早朝、主はマグダラのマリヤに現れた。だが、マリヤは「園丁」(番人)と誤解した。主はまばゆい栄光を帯びる事なく、見下された者の姿となられた。主は苦しむ者、悲嘆に暮れる者、絶望する者と共におられる。私たちを守り、導く信頼する長兄として近づかれた。ここに私たちの慰めがある。また、天に上ると言われた。これは、絶対的主権をもって、弟と妹である私たちを死守される事を暗示している。▽夕べー−−主は弟子が潜んでいた家の戸を通り抜けて弟子たちの所に行かれた。そして、信仰の弱い者たちを、全く責めず「安かれ」と言われた。更に「聖霊を受けよ」と霊的権能の力を与えると約束された。外は夕日が輝いていた。たとえ、全地が滅びても、必ず夕暮れが来るように、神の恵みは永遠に不変である。ゆえに、主の十字架と復活の事実を承認し、そのまま受け入れる事が重要である。神を愛する事も、求める事もしなかったような私たちのために、神は命を捨ててまでして愛して下さった。その愛の事実を受け入れ、感謝する事が、生き甲斐となり、また生きる喜びとなる。



2024年4月14日

「十字架の言は神の力」

犬塚 修牧師

なぜなら、キリストがわたしを遣わされたのは、洗礼を授けるためではなく、福音を告げ知らせるためであり、しかも、キリストの十字架がむなしいものになっ てしまわぬように、言葉の知恵によらないで告げ知らせるためだからです。十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。 <Tコリントぼ信徒への手紙1章10−18節>

当時のコリント教会は、様々な問題が山積していた。この教会には分派が生まれ、分裂の状態に置かれていた。パウロはその事を憂い、この書を書き送った。しかし、パウロは彼らの欠点を鋭く責め、戒め、裁こうとはしなかった。「太陽と北風」の寓話にあるように、人は愛され、赦される事で、成長し、初めて自分の罪に気付き、悔い改めに至る事を知っていた。▼パウロの満ち満ちた愛ー−1〜9節には、コリント教会に対する愛と優しさが溢れている。「神の教会・聖なる人々・豊かな賜物・非の打ち所のない」という言葉は、美辞麗句ではなく、パウロの真実な言葉である。人間的な見地から見たら、失格者に見えても、イエスの目には、愛の家族の一人一人に見えていると、パウロは確信していた。人と人を結び合わせるのは、気が合うといった人間的なものではない。どんなに感覚が違っていても、神の子としての家族意識と連帯感が大切である。虹は七色に輝いているが、各々の色が混じり合う事なく、お互いに尊重し合っているから美しいなのである。「あなたはこうでないとだめだ」という一方的な独善性が、交わりの中に混じると、不和と混乱が生まれてくる。▼キリストの十字架の言葉ー−−主の苦難と愛は、私たちのためにあった。その犠牲的な強い愛に導かれて生きるのが教会の使命である。力と暴虐のカリスマであったアレキサンダー大王は、一代で巨大な帝国を築いたが、死後、大帝国は4つの王国に分裂してしまった。一方、愛の共同体である神の国は、人類の歴史という巨大な土壌に根を張り、全世界に広がってきた。世の人々が弱者、無力、敗北と嘲ったイエスの福音が、全世界の歴史を、闇の支配から光の方向に変えていったのである。



2024年4月21日

「成長させてくださる神」

犬塚 美佐子

わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。 7ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。 8植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり、あなたがたは神の畑、神の建物なのです。  <Tコリントの信徒への手紙3章1−9節>

 コリントの教会には、妬みや争いがあった。パウロは彼らの事を「肉の人」と呼んではいるが、これは批判の言葉というよりも、愛の心を秘めていた言葉である。ただ、ボタンの掛け違いで、そうなっているのだから、キリスト信仰を堅持する事で、その状態から抜け出し、豊かに成長していく事ができると信じていた。▼同労者の働きについてー−−それは、パウロは種を植え、アポロは水を注いだのは、主への奉仕の業であって、その報いは主から与えられるものである。従って、人々が、霊的指導者たちを過剰に評価したり、逆に、批判して、混乱を招く事は愚かな事であると、戒めている。大切な事は、成長させて下さる神なのである。私たちは目に見える現実に、心が支配されやすい。目に見えないお方に、目を注ぐべきである。▼ゆだねることー−−一生懸命に奉仕に励み、主のために働く事は、とても大切な業であるが、最も必要な事は、「主にゆだねる」事である。ゆだねるとは、何もしないのではなく、最重要な仕事である。私たちがゆだねた時、主は縦横無尽に働かれるのである。▼困難を目の前にしてー−−「目を上げて、私は山々を仰ぐ」詩編(121:1)とある。この山は「人生の困難」も暗示している。エルサレムへに向かう巡礼者は、自分が置かれた状況の厳しさを痛感し、その中で、労苦していた。彼らは、その苦しみの中で、天地を造られた神を仰ぎ、生きる力を得た。山に登り、礼拝をささげる中で、神と出会う事ができた。人生の困難さの中でこそ、その信仰は静かに成長を遂げていったのである。私たちも主に信頼し、人生という山を登っていく時、「ゆだねる」という広い視界が開けていくのである。



2024年4月28日

「その兄弟のためにも」

犬塚 修牧師

そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです。 <Tコリントの信徒への手紙8章1−13節><11-12節>

 神が最も大切にされたのは、知識ではなく、愛である。「知識は人を高ぶらせ、愛は建て上げる」(1節)とある。知識は一部分であるが、愛は教会全体を形作るのである。▼高ぶりによる弊害ー−−偶像に捧げられた食べ物が、後で「おさがりもの」として、市場で売られていたが、その食べ物に関して、信仰の強い人は「偶像はこの世に存在しないのだから、食べても構わない。万一食べても、何のたたりもない」と言ったが、一方、信仰の弱い人は「食べたら、偶像と一体になるので、絶対に食べるべきではない」という考えに固執していた。パウロは、前者であったが、正しい聖書の知識を誇る傲慢な態度については、厳しく批判している。弱い信仰者を辛辣に攻撃する事は、愛の欠けた行為としている。▼愛によるキリスト教会形成ー−−愛は、優しさ、思いやり、謙遜さである。主は弱い人を特別に慈しまれる。人との交わりを破壊するのは、高ぶりである。冷たい愛のない言葉は、人の心を深く傷つける。キリストは弱い人たち中に、ご自身を現わされる。パウロは「キリストの力は、弱さの中で十分に現れる」と説いている。マタイ25章31〜46節には「主は獄屋にいる囚人、病人、貧しい人々などの中にいる」と記されている。彼らとの出会いは、主と出会う事である。私たちは自分の弱さ、孤独を知って、十字架の主を仰ごう。更に「永遠」を思い、広大無辺な神の愛に心を向けよう。また「今」という時間を大切にして生きよう。




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