巻頭言
2023年4月


2023年4月2日

「最後の晩餐」

市川 牧人神学生

するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり 泣きだした。(72節)<マルコによる福音書14章66-72節>

この箇所で示される「最後の晩餐」は私たちふじみ教会で毎月第一主日に持たれている「主の晩餐式」のもとになった出来事です。この出来事があったから私たちは毎月変わらずパンとぶどう酒をいただきます。私たちはもしかしたら毎月行われる主の晩餐式に慣れてしまって、そこで意味されていることに感動することが難しくなってしまっているかもしれません。けれども、「主の晩餐式」は、イエス様がなんとしてでも弟子たちと共にしたかったこと、つまり私たちと共にしたいと強く願われるような、重要で感動的な出来事だったのです。▲その中でもイエス様の「パンを裂く」という行為にはどのような意味が込められているのでしょうか。それはつまり、ご自分の体が十字架の上で引き裂かれることを意味しています。最後の晩餐の後、イエス様は最愛の弟子に裏切られ、殴られ、痛めつけられ、ののしられ、一晩のうちに十字架刑に処されてしまいます。当時、w十字架にかけられるというのは、最大の辱めであり、これ以上にない残酷な死に方でありました。なんという仕打ち、なんという不条理でしょうか。イエス様は罪を犯さない唯一の正しい人でした。ですが私たちの罪のために十字架の上で激しい痛みを持ってその体を裂かれたのです。私たちは主の晩餐式で裂かれたパンを手に取ります。何の気なしに手に取ってしまう時があるかもしれません。私自身習慣のようにそれを受け取ってしまうことがあります。ですが、その瞬間に私たちはこのイエス様が受けた十字架の死に至るまでのすべての苦しみを手に取るのです。▲本日の主日でもふじみ教会では主の晩餐式が行われます。どうか皆様の心の内でも、パンを手に取るときにこのことを思い出していただきたいのです。私たちはパンを手に取るその瞬間に人間の破れと罪をすべてその身に受けてくださったイエス様の痛みを受け取っていきたいと思います。そして、イエス様の命がけの愛をそのパンを手に取る瞬間に確かに受け取っていきたいと思います。



2023年4月9日

「今日わたしと一緒に楽園に」

犬塚 契牧師

民衆と嘆き悲しむ婦人たちが大きな群れを成して、イエスに従った。イエスは婦人たちの方を振り向いて言われた。「エルサレムの娘たち、わたしのために泣くな。むしろ、自分と自分の子供たちのために泣け。…」 <ルカによる福音書23章26−43節>

主イエスキリストが十字架刑に処せられる場面を読んでいます。主イエスは十字架を背負って歩くことができないほどに衰弱していました。この死刑囚が途中で死に絶えては困ると判断したローマ兵は、おそらく過越祭の巡礼に来ていたキレネ人(北アフリカ)のシモンに無理やりそれを担がせます。シモンにとっては、あまりに不運な日でした。息も絶え絶えに前を歩くイエスの背中を恨めしく感じても不思議ではありません。「この囚人のせいで…」と。それとも同情があったでしょうか。後に建てられた教会に彼の息子たちの名が残っているのは驚きです。無理やり担がされた十字架の重みは自分の罪の重さに他ならないことに気づくのはひとつの奇跡です。また「嘆き悲しむ婦人たち」が、ガリラヤから帯同してきた女性たちなのか、地元「エルサレム」の泣き女たちなのかは意見が分かれますが、この非常な仕打ちに涙をしています。しかし、主イエスはその涙にいささかの慰めもあたたかな励ましも感じてはいませんでした。「わたしのために泣くな。自分のために泣け」と言われます。問われていたのは、同情の涙、理不尽への憤慨、暴力への無力感ではなく、自分の罪の重さの自覚と神への悔い改めの涙か否かでした。十字架の話は、可哀そうなイエスの最後ではありませんでした。この十字架の悲惨は、神が決して罪を赦さない方であることの証拠でありました。そして、この十字架の悲惨は、神がどうにかして罪人を赦す方であることの証拠でありました。とてつもない人間の悲惨があぶり出されています。凶暴なまでのリアリズムが容赦なく晒されます。罪は赦されません。罪人が赦されていきます。



2023年4月16日

「エマオの途上で」

犬塚 契牧師

そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。仲間の何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」 <ルカによる福音書24章13−35節>

主イエスの十字架刑から三日目にエルサレムから逃げるように離れる二人の弟子たち。夫婦だったかも知れません。彼らは、主イエスに言います。「エルサレムに滞在していながら、あなただけはご存じなかったのですか。」あーなんと呑気な、これはあきれたと嘆息が聞こえます。12キロ離れたエマオに急ぐ理由は、エルサレム中で話題の騒動に巻き込まれたら、自分たちの身も危ないと案じてのことだったでしょう。騒動とは、十字架刑の断行とともにその後に遺体が見つからないという事実、そして「イエスは生きておられる」と聞いた婦人たちの証言からエルサレムが陥った人々の疑心暗鬼です。嵐に巻き込まれる前に逃げるのです。彼ら自身、復活など信じてはいないが故にエマオへの途上にあるのです。▲主イエスが共に歩きながら「イエスだとは分からなかった」(16節)ようです。顔を隠していたわけでも、声色を変えていたのでもないでしょう。「二人の目は遮られていて」とありますので、どうやら神の仕業です。復活という出来事は、人間の知恵の勝利などではぜんぜんなく、知性と理性で信じられたようなことでもなく、神の仕業によって、信じさせてもらうようなことなのでしょう。「物理的証拠に基づくキリスト信仰なるものは存在しない」との関田寛雄先生の言葉を見つけました。昔ならまるでズルく思ったそんな表現が、今はありがたく感じてアーメンと頷くくらいには信仰を与えられました。感謝。▲昨年、召された松谷静榮姉。89歳まで一人で暮らされた自宅を先週、尋ねました。電話の上の掲示板の一番上に「もしものことがあっても孤独死ではありません。神様が共にいるので…。皆々様ありがとう!」と貼ってあるのを見つけました。これもまた神の仕業でした。



2023年4月23日

「福音を恥としない」

犬塚 契牧師

わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。福音には、神の義が啓示されていますが、それは、初めから終わりまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。 <ローマの信徒への手紙1章8−17節>

小学校の最終学年となって、新学期のはじめに「今年は一度も学校を休まない」と決めたのを聞いた時、これまでの彼の様子から「それはとても難しい…」と思っていたのに、見事皆勤賞で卒業をしました。だから、わたしは息子を恥とはしない…。んっ、おやっ、あれ、違うかな。きっとこういう場面では「誇りに思う」というのでしょう。ローマ書。パウロの信仰告白であり、彼の遺書と呼ばれるような晩年の手紙。会ったことのないローマの教会の人々に、自分の信仰が何かを伝えています。ローマ書の要約と言われる16−17節で「福音を恥とはしない」と書きました。おそらくは一度ならず恥に思えたことがあったのでしょう。しかし、もう今はそのことを抜けたということでしょうか。パウロの信仰遍歴をみる思いです。主イエスの福音とは、大いに恥ずかしいものにもなり得ます。いや、恥ずかしいことです。絶大な人気でのエルサレム入城の数日後に、すべての弟子に逃げられたイエス。滅多打ちで抵抗もできず、十字架に架けられたイエス。しかし、三日目に復活されたと言われるイエス。今はまた天に挙げられたというイエス。かつて、パウロは文化の中心アテネにて、こうバカにされていました。『「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、「それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」と言った。」(使徒言行録17章)▲まともではない神のその御想いの伝え方は、大抵は人の耳を塞ぎますが、時にまともでは救われない人の心に届きます。



2023年4月30日

「正しい者は一人もいない」

犬塚 契牧師

では、どうなのか。わたしたちには優れた点があるのでしょうか。全くありません。既に指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです。…さて、わたしたちが知っているように、すべて律法の言うところは、律法の下にいる人々に向けられています。それは、すべての人の口がふさがれて、全世界が神の裁きに服するようになるためなのです。…律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。 <ローマの信徒への手紙3章9−20節>

 数年前、秦野警察署から土曜日の夜に電話があって、万引きで捕まった知り合いの青年二人を迎えに来てほしいとのことで、ここで拒否すると余計に心がザワツクだろうという消極的な理由で出かけました。スーパーで食品を盗ったと電話で聞いて、いささかの同情も芽生え、腹いっぱいごちそうしようと車で向かいました。店長に謝罪に向かう車中、後部座席の二人が「俺たちは金がないから盗ったんだ。あるのに撮るやつはもっと悪いんだ」と話しているのが耳に入って、一緒に食事ができなくなりました。コンビニで買ったお弁当を渡して、別れてしまいました。もたげた小さな正義感を思い出します。考えれば、ただ幸いにも盗らずに生きていけているだけなのに。時と場合と状況とで、そんな些末な私の正義など吹き飛ぶものだと今は思っています。自信などありません。「優れた点があるのでしょうか。全くありません。」使徒パウロは、罪人を現行犯逮捕すべく書いているのではありません。ましてや、「ざまぁみろ、律法によっては罪の自覚しか生じない」と言いたいのでもありません。律法の後ろに福音を控えつつ、いつでも置きかえてひっくり返す準備、神の御想いの信頼をもって書いているようです。薄氷のような正義でなんと守られていることか、しかし、破れます。破れてなお引き受けておられる方があって生き得ます。




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