巻頭言
2021年4月


2021年4月4日

「十字架上の神の子」

犬塚 契牧師

百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 <マタイによる福音書 27章32-56節>

平成の終わりに急いで松本智津夫死刑囚を始め、オウム真理教が起こした事件に関わった人たちが相次いで死刑となりました。なお解明されるべき事があったのだと思いますが、はやくすっきりして新しい時代を迎えたいという声が強かったのでしょう。日本の死刑制度の不思議は、それがどのような形で行われ、最後の様子がどんなであったのかをほとんど知らされないまま執行されるということです。世界の趨勢は死刑制度の廃止ですが、先進国の中でほぼ日本だけが密室で執行され、議論の高まりも起きません。だからなおさら、2000年前のローマの死刑の様子がマタイ27章において、詳細に伝えられていることが不思議でなりません。当時、ローマ帝国は十字架刑の抑止によって平和の状態を保っていたようです。既成の権力に歯向かう政治犯や扇動者は頻繁に十字架刑となりました。よくある光景であったのです。しかし、主イエスの十字架だけは、時と共に忘れられることなく、記憶されていくことになります。あの日、何かが起きました。ボロボロに鞭うたれた体は限界を超え、ゴルゴダに着く前に息絶える可能性がありました。そこで、巡礼に来ていたキレネ人(アフリカ北部)シモンが目をつけられ、代わりに担がされることになりました。彼の背丈、皮膚の色が一際目立ったのかも知れません。犯罪者の身代わりとは、一生の恥であったことでしょう。誰にも知られたくない屈辱のはずです。しかし、マルコ福音書にもローマ書にも彼の息子の名前が確認できます。十字架の後に彼の家族は、主イエスを神と信じ、クリスチャンとなり、教会を支えたのだと理解してよいと思います。一体、何が起きたのだろうと思います。また、「本当に、この人は神の子だった」と語った百人隊長も不思議です。彼のバックには、最強のローマ軍隊が控え、それは、世界一の権威と力の結晶でした。それがまんまとイエスを亡き者にしたはずです。大地は揺れ、太陽は光を失いましたが、結局は神の声は響かず、武力が成功をおさめたはずです。しかし、その力をもってしても決して負かしきれなかったものを感じたようです。神の物語の続きを知ったようです。▲神ならば、こんなはずだと思い描いた、もしくは人間が神はこうあれと願ったその外に、確かに神はおられました。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶことがあっても、悪が勝利したように見えても、世界は終わりを告げません。 十字架の場面は七色に光るので、どこを強くお勧めしたらよいのか迷います。三位一体と言われる神の内に、「父なる神」と「子なる」神に何が起きていたのか、これが出来レースでなければ、本当にどんなことが起きていたか、どんな神学者も正確に表現できないだと思います。ただ、分かること「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という絶望の言葉を主イエスは叫ばれ、もうこの言葉を自分のものとする必要がなくなったということです。



2021年4月11日

「神様の夢見る続き」

犬塚 契牧師

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 <マタイによる福音書28章1-15節>

流れるように過ぎていく時間の中で、出来事の変化を普段はそれほどに意識せずに生きています。「今日も一つ悲しいことがあった 今日もまた一つうれしいことがあった…そしてこれらの一つ一つを柔らかく包んでくれた数えきれないほど沢山の平凡なことがあった」(星野富弘)うん、その通りです。私たちが生きているのはきっとそんな日常だと思います。それでも不意に「もう元には戻らない」という世界を垣間見ます。大きな失敗や事故、病や死。もし可能であれば、結果を回避するためにあらゆることを試すのに、そんな気持ちはあっても、時間は戻すことができません。小中学生の15%が「人は死んでも生き返る」と考えているというアンケートを目にしました。核家族化によって、死を間近に経験したことのない子どもたちやゲームで繰り返しリセットができる環境の影響と分析されていました。しかし、人は確かに死ぬ存在であり、死んだ者はもう元には戻らないのです。▲復活は、十字架刑で死んだイエスキリストが蘇生した話ではありません。鞭当たれ、肉が裂けた跡も、茨が食い込んだ頭の傷も残ってはいませんでした。全治数か月の瀕死の体がもう一度なんとか息を吹き返したというのでもありませんでした。主イエスは、トマスに見せる傷だけを残して、新しい体を得ていました。復活は、まったく質的に新しいいのちのはじまりでした。神と人、人と人との関係の変容、変貌、完成の希望です。十字架で流された主イエスの血は、人の罪を贖うものだと信じられてきました。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」(ヨハネ1:29)罪許されたと信じた者がその後の人生を喜んで謳歌できるようにという教えではありません。復活は、続きを伝えています。神が夢見る物語の続きを復活は伝えています。▲太陽が燃え尽き、地球に生物がなくなり、宇宙も終わりがあるのだと計算されています。50億年先の話は確認できません。50年も15年も5年も分からない者です。ただ静かに知らされる神の夢があります。ご自分の家族を大切に両手に抱え、迎えようとする神の夢です。私はそんな父なる神の御想いを信じたいと思っています。▲空っぽの墓の横に立っていた番兵は、この大きなニュースを金銭と換え、弟子たちがイエスの遺体を盗んだと噂を流しました。「兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」(15節)理解できない話ではありません。人は、危機の中で目の前の金銭、利権、安定に何とかしがみつこうとするものだと思います。震災による復興支援、平和のスポーツの祭典、2050問題、コロナ危機、世界各地の紛争や内戦…いのちが叫ばれる背後に渦巻いているものの巨大さに震える思いもありますし、逃げ切れぬ自分の姿も思います。ただ主イエスの復活によって知らされる新しいいのちの始まりは、最後まで希望の知らせであることを覚えておきたいと思うのです。



2021年4月18日

「それぞれの最前線」

犬塚 契牧師

さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。…わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」<マタイ28章11-20節>

マタイ福音書の最後、復活後の出来事です。主イエスは、復活の日曜日にエルサレムで会った弟子たちと今度はガリラヤで会いました。かつて教えた懐かしの山での再会です。彼らが召された原点にもう一度戻ってきました。そこで弟子たちは主イエスを拝すのですが、「しかし、疑う者もいた」ようです。複数形であり、一人ではありませんでした。確かにあの日十字架で死んだイエス様とこの新しいからだのイエスは、同じ人物なのだろうか…。見ながらも、まだ疑いの中にありました。28章は、もうマタイ福音書のクライマックスのはずです。「復活」が作り話ならばハッピーエンドに、こんな水を差すようなエピソードは不要だったと思います。だから、福音書のリアリティを感じる記録です。2000年前、ガリラヤの丘の上で、弟子たちは主イエスを前に、疑いながら礼拝をしていました。なんだかそんな事実が時間を超えてすぐ近くの出来事、つまりは私(たち)の日常にも思えるのです。まして幸いは、そんな弟子たちに対して、「近寄って来て」くださる主イエスの姿です。この期に及んでなお疑う者を退け、信じる者だけに最後のメッセージを伝えたのではありません。みなに伝えました。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」その近寄ってくださる姿と迫りゆえになお礼拝するものであることにただ感謝を覚えています。▲数日前にあえなくローマの暴力、エルサレムの権力構造、宗教的指導者の妬み、民衆の心変わりに、命奪われた人が、「一切の権能を授かっている」と大胆な宣言をしています。こんなあり得ないことこそが、すべてに先立つ現実なのだというのです。そして、それをまともに信じた人たちがその生を全うし、それが歴史となってきました。この主イエスの権能に勝るものはないのだというのです。その主イエスが約束をされました。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」



2021年4月25日

「幸せなんだ」

犬塚 修牧師

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。 <マタイによる福音書5章1-12節>

この時の主イエスの人気はすさまじいものがありました。5章の前の記事には、「こうして、ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ、ヨルダン川の向こう側から、大勢の群衆が来てイエスに従った。」(4章)とあります。集まってきたのは、今話題の新進気鋭のラビを一目見ようというミーハーで余裕ある人々ではなく、病み、苦しみ、喘いでいた、その日暮らすのが精いっぱいの貧しい人々だったようです。「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ。」(ガリラヤのイエシュー)▲町を歩くといたるところに政策要綱を掲げたポスターが貼ってあるのを見つけます。「日本の未来を守るために」「8時間働けば普通に暮らせる社会へ」…。それぞれに恐るべき脅威や抗うべき社会構造があり、短い言葉で政党や政治家の成したい方向性を伝えています。もしそこに並んで人気絶頂のラビ・イエスのポスターがあり「貧しき者は幸いなり」と書かれていたら人々はどんな反応をするのだろうかと想像するのです。そしては、私がその場にいたら、喜ぶだろうか、悲しむだろうか、怒るだろうかと…。もし「貧しき者よ、今こそ立ち上がれ」だったら、人気はさらに増したでしょうか。▲惨めな時に惨めな目で見られると涙は止まらなくなるものです。人には尊厳がありますから。この「貧しき者の幸い」は、虐げられた者の強烈なアンチテーゼでしょうか。または…。苦しい時、この地上での幸いに早々に見切りをつけ、次の世界への待望信仰が生まれます。例えば長い奴隷生活強いられた黒人たちは歌いました。「♪馬車よ降りてこい故郷に帰るのだ」(聖歌648)ならば、「貧しき者の幸い」は、先の約束手形でしょうか。▲私たちは、主イエスの受難、十字架、復活を覚え、28章の最後「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」を礼拝で読んで後、今日再び5章に戻っています。その主イエスが、貧しき者にたいして、本当の神様の目の付け所を伝えているようです。気休めでも空約束でもなく、「なんて、幸せなのだろう」と言われました。主イエスだけが語れる言葉です。数年前、印象に残る証しを松本姉より聞きました。お願いして短く書いていただきました。そのまま紹介いたします。▲20年程前の話になります。ある精神科病院の閉鎖病棟に入院していた時、とても幸せな体験をしました。いつものように元気なく病棟内の椅子に座っていると60歳くらいの女性の患者さんがスーッと私の横に来て、まるでペコちゃんの頭をよしよしするように私の頭をポンポンとさわって無言のままたちさっていかれました。その患者さんは10年以上入院されている方で、外出も外泊もできず、普段は廊下にじっとすわって過ごされていました。会話もままならず、時々あーとか、うーとか大声をだされる方でした。大変な病気を背負ったその方が、頭をポンポンしてくれた時、私は不思議な元気がでました。心の貧しい人々は幸いである、天の国はその人たちのものである。というみことばを頂くとき、その方を思い出します。心を病んでいるからといって不幸とは限らないんだ。さとちゃん、今も病院の中にいますか?さとちゃんの優しさに感謝しています。さとちゃんに出会わせてくださった神様に感謝しています。




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