巻頭言
2020年4月


2020年4月5日

「イエス様は世界の王なんだ」

犬塚 契牧師

イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」        <ヨハネによる福音書 18:28-38>

主イエスは、ゲッセマネの園での逮捕後、かつての大祭司アンナスのもとへ連行されたのは、まだ影響力があったからでしょう。きっと忖度が働いたのだと思います。アンナスは目の前で、奇跡も起こす大物のラビ・イエスが手下に思い切り、殴られるのを見て満足し、大祭司カイアファへ送ります。大祭司カイアファは、総督ピラトの手で死刑にしようと考えています。しかし、胸中複雑で異邦人ピラトの官邸に入れば、汚れるのだと忌み嫌ってもいます。ユダヤの総督ピラトは、火の付きやすいこの民族のもめ事がローマ皇帝の耳に入るのを恐れています。18章を読むと、権力ある登場人物の皆が皆、妬み、見栄、自己顕示、保身、虚栄、怯えの中にあります。そして、理不尽にもそんな個々人の私欲のドロドロに一人の命が揺さぶられています。ルカ23章にはヘロデ・アンティパスも登場し、これを機にピラトと仲良しになったようで、いよいよ極まれりです。▲「こんなアホらしい裁判あるか!バカバカしい。付き合っていられるか!」と主イエスは、ひっくり返すことができたのだと思います。「わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。」(マタイ26:53)とも言われました。考えてみます。買収された審判のもとで、懸命にスポーツができるでしょうか。八百長の試合に選手の真剣さは必要でしょうか。神である主イエスが、甘んじて浅薄で醜悪な人間のルールに従われた謙卑を想って、心底驚いています。…が、私の底などお昼には干上がる水たまりに過ぎません。ただ神ご自身の御思いの深さをどうにかあらゆる感覚と祈りの中で触れたいと願うばかりです。忖度、妬み、見栄、自己顕示、保身…宗教的・政治的指導者たちの有様を自分の遠くに置くことはできません。主イエスは、そこにいてくださいました。ピラトから尋問されているはずの主イエスが、ピラトを問うています。主イエスこそ教会の王なんかでなく、世界の王なのだと知らされる裁判の場面です。



2020年4月12日

「十字架の傍らで」

犬塚 契牧師

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。     <<マタイによる福音書27章46節>

聖書の言葉が、黄金律の名言集なのだと勘違いしていた若い頃、「わが神、わか神、なぜわたしをお見捨てに…」の意味が不明で、通っていた教会の伝道師に聞きました。主イエスの人生最後の言葉が絶望であることは、神の沽券に関わるのではないかとでも思っていたのかも知れません。今となっては、なぜ問うたのか、その理由すらも不確かです。しかし、統一教会から脱会して伝道師になったという彼は、伝道師らしい?微笑みを浮かべながら、目は合わせず、自分にも語るかのように、静かに一言、「私たちの言葉の代弁だった…」と方言交じりに答えてくれました。方言だったので語尾が思い出せません。それ以上のことは話さず、自分の仕事に戻られたのです。その時、しっくりいったわけではありません。しかし、心には残りました。そして、25年ほど経った今、この言葉を主イエスが代弁したならば、私は一生涯この言葉を発する必要がないことを覚えるようになりました。主イエスは、ヘセド(慈愛・契約の愛)をもって、この言葉を私の人生から奪われたのだと。この言葉は、もう不必要な言葉だと。もう使わなくてよい言葉だと知るようになりました。どの場面を生きているとしてもです。▲「わが神、わが神…」の叫喚とは、日常会話では、もともと使わないフレーズです。きっと、緊急事態宣言下でも舌にのぼらない言葉だと思います。存在のもっと奥深くに仕舞われていて、さぁ、絶命的場面の最後に登場し、出来事を黒く染めるものだったと思います。しかし、すでにその言葉は、代弁者によって、語り尽くされました。後は、イースター招きを受けるばかりです。



2020年4月19日

「先んじた輝き」

犬塚 契牧師

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』とマグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。 <ヨハネによる福音書20章11-18節>

マグダラのマリアが、7つの悪霊を追い出してもらったこと以外、福音書から知れることはありません。ただキリスト教会は、ルカ7章の「罪深い女」の可能性を言い伝えてきました。主イエスが食事中に涙を流しながら現れ、それで足を洗い、髪でふき、香油を塗った女性です。周りは罪深い女として、冷ややかに反応しました。しかし、主イエスは、彼女を拒絶されることはありませんでした。言い伝えの真贋は不明ですが、マリアもまた傷つき果てたことのある女性でした。ゆえに主イエスに人生を変えられた大きさとは、他人は口をはさめぬような計り知れぬものでした。しかし、逮捕、裁判、十字架、死が、彼女の希望の欠片すら残さず打ち砕きました。彼女は、無力さを覚えながら、一部始終を見たのです。もう死に寄り添って、墓近く、遺体のそばで、喪に服す形で仕える以外にありません。けれども、その遺体すら奪われてしまいました。形見の一つも残されていない悲しみです。しかし、その場面で、天使と園丁が、「なぜ泣いているのか」と投げかけます。驚きの反応を引き出す前振りやいたずら心のつもりではありません。絶望的に近視眼的な人間存在への福音的な励ましです。絶望的に見えない私たちへ差し出されたいのちのことばと聞こえます。マリアは、神が永遠の家族を望んでおられるのだと知り、それを伝える最初となりました。イースターを出発点にして、今日を眺めてよいのだと、どうか覚えることができますように。



2020年4月26日

「わたしの主、わたしの神よ」

犬塚 修牧師

「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節) <ヨハネによる福音書20章19-29節>

「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい」(27節) 復活された主イエス・キリストは、人間を恐れて家に閉じ籠もっていた弟子達に顕現された。この事は、彼らにとって、青天の霹靂の出来事であった。また、主は「あなた方に平和(シャローム)があるように」と優しく声をかけられた。愛する主を裏切った事で、深い罪責感に苦悶していた彼らにとって、この一言は非常に喜ばしいものであった。 主は弟子達の罪を全く責められなかった。シャロームは「完全な状態」を意味する。私たちは不完全で、失敗を繰り返す者であるが、主は「あなたは今、罪赦され、完全な恵みの中に、生かされている」と宣言される。▲トマスの告白―復活の主が顕現された時、その場にトマスだけが居なかった。後に、すばらしい知らせを聞いたが、彼の心に去来したものは、悔しさと苛立ちであったのではなかろうか。彼は「自分だけがいつも、貧乏くじを引いている」という疎外感や孤独感を覚えたと思う。そして「自分の指や手を、主のみ手とわき腹に入れないと信じない。」と主の復活の事実にも、疑いを発している。▲イエス様の顕現―しかし、八日後、主イエス様は、再び、彼らの家に顕現された。それはトマス一人の為であった。これは驚くべき事である。主は、疑って不信仰になり、心が打ち沈んでいる人に、特別な愛を持って近づかれる。疑いや自己嫌悪に陥っている人に、必要なものは、厳しい叱責や教訓ではなく、深い共感と慰めである。主はトマスの怒りと悲しみを背負い、癒すために、あえて近づかれ「私の手を見よ」と言われた。彼のために苦しみ、身代わりとなって死なれた釘による傷跡が、そこにあった。また「あなたの手を私のわき腹に入れよ」とも言われた。「わき腹」には溢れる感情があると信じられていた。その所に、彼が自分の手を入れた瞬間、イエス様の十字架の深い愛に触れたのである。「手を入れる」行為は、主を愛し、強く信じる事であり、また主と一つとなる事である。また、今後一生の間、このお方から決して離れない決心をする事である。イエス様の愛は、腸がよじれるような苦しみを経た十字架の愛である。故に、私たちは最早、自分の為ではなく、自己犠牲の神の愛に触れた者として、自分自身を神に捧げて生きたいものである。




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