巻頭言
2019年4月


2019年4月7日

「暖かく燃える」

犬塚 契牧師

話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。 <ルカによる福音書24章13-35節>

イエスキリストの遺体が墓の中から消えてしまったその日、エルサレムからエマオに向けて二人の弟子が道を急いでいました。一人の名は、クレオパもう一人はその妻でしょうか。12弟子には数えられてはいませんが、エルサレムまで主イエスに従ったのでしょう。しかし、遺体が行方不明と聞き、さらに「イエスは生きておられる」という噂まで耳にしながら、喜ぶどころか恐れを感じ、逃げるようにエルサレムを去るのです。二人は、暗い顔をしていました。時の権力者、十字架につけた祭司たちは、もし本当に復活があった場合、自分たちが窮地に陥ることを恐れていたでしょう。それは、エルサレム中に満ちていました。やがて、祭りが終われば、弟子たちはひとり残らず逮捕されるのでしょう。復活したなどというたわごとは、さらなる混乱を招き、虚偽の風説の流布として、弟子たちを窮地に追い込みます。だから、不思議なことに、復活の知らせは、ちっとも慰めにならなったのです。曇った目と聞こえない耳で、福音が福音とならず、復活が凶報に聞こえ、暗い顔をしています。▲歩みを振り返って、私もまたこのエマオの途上を歩んでいます。恐怖の道、逃亡の道、不安の道、気づかない道は、私の道でもあります。しかし、計り知れぬ慰めは、「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」事実です。横を歩きながら、なお気づかない弟子たちにそっと聖書からご自身を伝える主イエスを私も信じています。そして、エマオへの道は、ふたたびエルサレムへの道と変わります。主よ、ああ、主よ。



2018年4月14日

「ペトロの涙」

犬塚 契牧師

しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」   <ルカによる福音書22章31-34節、54-62節>

「兄弟たちを力づけてやりなさい」。…人は、何に対して力を失ってしまうのだろうかと考えています。「力づける」とは、どんなことへの励ましだったのかと思っています。うー、やはり、愛することへの力づけではなかったかと。意気消沈しやすく、あきらめやすく、やめやすいのは、「愛する」ことに思えます。▲ペトロの3度の否定は、大きな不祥事であり、不名誉な出来事でした。全教会の顔であったペトロの失敗は、本人が証言しなければ、誰も知り得ない事実だったでしょう。けれどもただのスキャンダルの暴露ではありません。あのペトロ先生も失敗したのだから、私たちも大丈夫だ!…という励ましは、「しくじり先生」で十分です。人の失敗を糧にできる時期は意外にすぐ過ぎてしまいます。むしろ、必要な励ましは、私たちの日常に溢れている失望のかけらに対してです。突然の無視、冷淡な反応、理解されない善意、誤解が続く関係、理不尽な評価…それらは余りにありふれており、一つ一つは小さな出来事に思いながらも、十分な失望を私たちに与えています。そして、世界はどこまでも恐れが支配し、殺伐に近づきます。▲励ましが必要です。力づけが必要なのです。ペトロが裏切った夜、イエスキリストは恨みもったまなざしで彼を見つめませんでした。裏切りにふさわしい悪態で返しませんでした。むしろ、その恐れを知り、裏切る前からその心を庇いながら、まなざしを向けられました。「なお、愛する」という事実に、ペトロは立っていることができませんでした。「そして外に出て、激しく泣いた。」▲この聖書箇所のインパクトを思います。裏切られた者が、裏切り返すことでは、誤解されたものが怒りに変えることでは、拒絶されたものが埃を落とすことでは、世の中はただただ愛するを知らないままなのです。「力づけてやりなさい」とは、なお、世界を殺伐へと向かわせない。主イエスの御愛です。



2018年4月21日

「神に栄光あれ」

犬塚 修牧師

「喜びにあふれて非の打ちどころのない者として、栄光に輝く御前に立たせることのできる方」 <ユダの手紙24節>

主イエスは私達の罪のすべてを背負って、十字架上で死に、三日目に死から復活して下さった。それによって、全人類を罰と呪いから完全に解放し、非の打ちどころのない清き者として下さった。それは驚嘆すべき神の愛のみ業である。▲私達は苦難や試練や苦しみについて、敏感に反応するが、罪については鈍感である気がする。罪と無関係だとして「自分はそんなに悪くない」と思うのである。確かにその通りかもしれない。しかし、聖書において、罪とは、この世で言う道徳的・倫理的な犯罪の意味ではない。▲罪とは元来、私達の心が神から離れている孤立した関係を指す。本来、人間が歩むべき道から、離れている状態の事、的を外した生き様である。一例では、相手に対して、冷たい言動を取ったり、言い過ぎて相手を傷つけたり、言葉足らずで誤解を与えたり、曲解して信頼感を失う事もある。また、自分は悪くないと思いたいので、真に悔い改める事もできない。その内、心は疲れ果て、なえていく。▲更に、私達は神に対して、不従順な生き方をしてしまう。傲慢となり、神を無視し、自力で生きられるとして、自分勝手に生きる事さえある。実は、自分の罪も自覚しないほどに、私達は罪深い者である気がしてならない。そのような現実の中で、私達の罪と弱さに心を砕き、徹底的に関わり、ついに完全に赦して罪の呪いから、解き放されたお方が主イエスである。その十字架の死によって、救いの聖業は完成されたのだ。▲「非の打ちどころのない」とは「無傷の」という意味である。私達は傷だらけの状態になる事がある。傷が恐ろしいのは、それが化膿してさらに悪化する事である。イエスの死は、そんな私達を完全に清め、無傷のものとして下さる。人間というものは、指先にわずかな棘が刺さっただけで、激しい痛みを感じてしまうが、名医により、その棘を取り除かれたならば、痛みから解放される。深い傷を取り除いて下さる主に感謝を捧げよう。主の救いを信じる者は、聖い神の子としての資格を与えられる!今や、父なる神の大いなる栄光と喜びが、私達を包み込んでいる。 大いなる恵みのゆえに、私達は高らかに神に栄光あれ、と祈るのである。



2018年4月28日

「復活の証し人」

犬塚 契牧師

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。…彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。 <ルカによる福音書24章36〜49節>

おそらく人は皆、それぞれに物語があって、その世界に生き、うごめているものだと思います。それは、自分一人で作り上げたものではなく、様々な影響下で出来上がっていくものなのでしょう。かつて国が作り上げた物語があり、教師はそれを教え、生徒は命を落とし、歴史は血で染まり、叫び声と涙が流されました。今はどんな物語が作られているでしょうか。また、企業が作り上げた物語があり、テレビを通して、誘いを受けています。聖書もまた物語を描いています。神の御思いと言い代えてもよいでしょう。「復活」は、神の物語の大切な出来事です。信じられるか否かとか、クリスチャンになる際の最終試験「踏み絵」ではありません。ルカ24章、復活の伝えられ方は、唐突で、常識を超え、荒唐無稽で、受け入れ難く、ユニークで、あきれてしまい、愛に溢れています。死んだはずのイエスキリストが、カギを掛けた部屋の真ん中に立って弟子たちに声をかけています。なお信じられない弟子たちの前でムシャムシャと魚を食べています…???幼児向けのファンタジーではありません。世界20憶人のクリスチャンの希望の物語です。2000年間、人々の目に晒され、疑問視され、一笑に付され、相手にされず、そして、希望となり、殉教者を生み、信じるものを変えた物語です。絶対的、圧倒的、決定的、絶望的に立ちはだかる死の壁を、私たちの主イエスキリストはやすやすと超えて、声を掛けられたのです。ますますの暗澹に向かう物語は、聖書の物語ではありません。「こうなったらおしまいじゃないか!」という涙を復活は乾かすのです。




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