巻頭言
2018年4月


2018年4月1日

「最も大きな奇跡」

犬塚 契牧師

百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った。 <マルコによる福音書16章39節>

いくつかの短い伝記を子どもたちに読みながら、気づきました。伝記は、偉人達が最も活躍したときに焦点を当てて書くのが普通で、弱り切った最後や明らかな失敗をクライマックスとはしません。しかし、福音書のすべては、イエスキリストの生涯最後場面、十字架の刑による死を書き漏らしませんでした。多くの人たちが十字架の形のアクセサリーを使っている現代では想像できませんが、ローマ帝国が栄える少し前に人間が考え出した苦しみと恥辱の極みが十字架刑でした。電気椅子のイヤリング、絞首刑の縄のネックレス、ガス室の煙突型の帽子は、のちのちにオシャレで通じるなんてことがあるでしょうか。親や子や友人や先生や近所の人も、絶対にこんな死に方をしてはならないはずでした。▲マルコはローマの百人隊長が信仰を告白した理由を明確に記してはいません。あの十字架の日、人の妬みがどうしようもなく渦巻く世界をみていました。それでも、何一つ語らぬ神と高らかに宣言される妬み、悪の勝利の間に彼はいました。吸い込まれそうな沈黙の中で、「わが神、わが神、どうして」となお嘆く声を聴いて、子の親に対する愛と関係の深さ―どんなにか深く信頼し、期待を寄せていたのか―を彼は知りました。その叫びは、妬みの喧騒の中でかき消されることなく、不思議な不思議な告白へと導かれていきます。宗教的指導者たちの高笑い、ローマの圧倒的権力、対するイエスキリストの無力と踏みつぶし得ない祈り…何か決定的に違うことを知らされたのだと思います。「本当に、この人は神の子だった」▲春が来ました。若葉は色を濃くし、やがて夏を迎えるでしょう。そして、秋と冬がまたやってきます。一年ごとに季節は変わります。神が沈黙を守り、イエスキリストの絶叫が響いた日、世界のバランスが変わりました。力の方向性が変わりました。悪の勝利は瞬きでした。今や新しい国が立ち上がりました。神の国を望む人による新しい歴史が刻まれます。神の創造は、今や完成し、なお広がっています。



2018年4月8日

「イエス・キリストの復活が示すもの」

犬塚 契牧師

彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。   <マルコによる福音書16章4-5節>

ステラの祖父である金子義夫さんが3月31日、天に召されました。89歳の生涯でした。十代の時には、アジア太平洋戦争の中、日本軍に属して働き、終戦を迎えて、家に戻るとすでに父親が他界していたことを知ります。詳しくは聞いていませんが、その話の仕方から、随分と寂しい思いをされたのだと思います。ステラの日本滞在中の愛ある関りとアメリカに戻ってからも積まれた祈りよって、「なんだか落ち着いた」という信仰の告白と「助かった気がします」という病床洗礼の実がなりました。そして、神様の計画によって、ふじみキリスト教会の墓地に納骨し、墓石に彫刻することになりました。「我らの国籍は天にあり ピリピ書3章20節」と刻まれた墓石は、韓国人として生まれ、日本で生涯を過ごし、アメリカでの熱心な祈りに導かれた人の亡き骸を収めるには、ふさわしく思えます。ほとんど面識も接点もない中で訪問を数度しましたが、「石はすでにわきへ転がしてあった」という奇跡のような経験を何度もしました。事の度ごとに不安と疑いをもって足を向けますが、結果は驚きがありました。マルコ16章、主イエスの復活に対する女性たちの困惑をいささか想像できるようになりました。▲有力な写本は8節「そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」で突然に終わっています。おそらくマルコは女性たちの沈黙で福音書を閉じたかったのでしょう。沈黙の先は、私たち自身が今日も生きておられる主イエスと綴るのだというマルコの信仰のリアリティを感じます。▲私たちの歩みとは、何とか今のページを読み終えて、次のページをめくるとまた新しい課題が見えてくるもののようです。しかし、その場所に主イエスキリストは伴われるので、「にも関わらず」生きるのです。



2018年4月15日

「神の愚かさ、神の弱さ、人の救い」

犬塚 契牧師

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。…ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。 <コリントの信徒への手紙T 1章18-31節>

なぜパウロは、「十字架の言葉」という書き方をしたのだろうと思いめぐらします。十字架の「愛」「情熱」「恵み」「深さ」…。いろいろとあり得たのでないかと…。「言葉」(ロゴス)は、読んだり書いたり、聞いたり話したりだけことでなく、その内容や意味、理由、原因、影響など出来事全体を表しています。(口語訳聖書は「言」と一字で表現していました)十字架の言葉が、それぞれの内に立ち上がってくるのには、時間と思いめぐらしと祈りと信頼(信仰)が必要なのでしょう。きっと「言葉」「言」の出来上がりは、一朝一夕には成り得ないものです。▲当時の恥辱の最たるものが十字架でした。人々には、イエスの宣教、イエスの人生は失敗と映りました。木に吊るされた者の呪いをユダヤ人は、申命記にずっと読んでいました。またメシア到来の大きなしるしを信じていました。何も起きなかった十字架の日は、ただの忌まわしいカレンダーのシミでしかありませんでした。ギリシャ人は、人に影響などされない、決して変わらない、無感動、無関心の「神らしい神」を想像しました。神の受肉?共感?十字架の救い…?神が?なぜ…?アホか。しかし、十字架の言葉、神の愚かさ、神の弱さに、むしろ人の救いを見出すことができるとパウロは信じるようになりました。彼の人生における場面場面で、失敗に見える出来事に希望を見出すこと、行使されなかった力に愛の証拠を感じること、最も低き場所にもふさわしいトーンで慰めが響くことを知っていったのだと思います。それは人がなにがしでなく、神の真実さ故に、ただそれ故の法外な恵みです。「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」1コリント1章9節



2018年4月22日

「キリストの言葉によって」

犬塚 修牧師

「キリストの言葉があなた方の内に豊かに宿るようにしなさい」(16節) <コロサイ書3章12〜17節>

私達は「あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」の心を持ちたいと願っているが、現実には中々、そうなれない。なぜか。その理由は、人間的な努力によって実現しようとするからである。実は、これらは神から与えられる賜物である。「あわれみ」とは「腸がよじれる程の熱愛」の意味であるが、これは人間を超えた神の性質である。ゆえに、主を受け入れ、主と心が一つになる事が求められる。人間はあらゆる面で、不完全である。その私達が、雄々しく、かつ力強く生きるためには、神の愛の言葉で、心が覆われている事が肝要である。神の言葉を身にまとうならば、どんな鋭い矢も私達を傷つける事ができない。▼ユダとペトロとの違いは、主への応答の姿勢にあった。ユダは、責任感の強い人であったと思うが、致命的な失敗は、己が犯した裏切りを悔いた後、祭司長の所へ出かけて行った事である。その結果、彼から冷酷な言葉を受けて、自分に絶望した。他方、ペトロも主を裏切ったが、すぐにキリストの愛の言葉を思い出し、その赦しの愛に涙した。どんなに取り返しのつかない大失敗を犯しても、主の元に戻り、深く悔い改めるならば、その罪は完全に赦されると悟った。そして彼は清められ、後には、主に用いられる神の器となった。いかなる過酷な状況下にあっても、主の愛は完全無欠であると確信して、キリスト中心の生き方を貫く事である。厳しい現実を見て不安になり、うろたえ、また一喜一憂してはならない。いついかなる場合でも、主をほめたたえ、すべては主の御手に導かれ、最善へと導かれていくと信じ続けたいものである。



2018年4月29

「それぞれの召しを生きる…私が私に」

犬塚 契牧師

おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです。…割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです。 おのおの召されたときの身分にとどまっていなさい。 <コリントの信徒への手紙T 7章17-24節>

コリント教会へのパウロの手紙を読んでいます。質問の手紙は失われてありませんが、それに答えるパウロの様子が浮かびます。割礼を受けた者は、それを恥ずかしいと思い、割礼を受けていないものは自分が近道をした気になったのでしょうか。またはそれがお互いを裁き合うような課題として残り、無視できないくらいに膨らんだのかもしれません。奴隷だった者は、急にその立場に理不尽を感じ、人に仕えることがむしろ神の心に反しているかも知れないと考えました。ほかの誰かになろうと必死なのは、今も昔も同じなのだなぁと読みました。上記聖書箇所の「身分」とは「状態」とも訳され、原意は「召し」だそうで、岩波訳は広くこう訳しました。「「神が召されてここに至っている今に応じて、それぞれは歩みなさい」。今、ここにある導きは、神の召しにあるのだというパウロの答えは、「どうして、こんなに」「どこを間違えた」という口をついて出る哀しみを小さくし、私たちの慰めとなります。そしてなおその召しを生きていいようです。あさってに神を探し求める必要はありません。今日、この場を主イエスキリストの臨在の場として生き得るのです。パウロの書き方は、すぐに終末が来るような姿勢を感じます。ますます主イエスキリストに焦点を合わせて生きることの緊張感があります。2000年もの月日が流れました。焦る緊張感ではありません。ただなお目を覚ましている必要を覚えます。




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