巻頭言
2017年4月


2017年4月2日

「神が神として、人が人として」

犬塚 契牧師

その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。この日はあなたがたに記念となり、…<出エジプト記12章>

ユダヤの暦の新年から10日経って、人々は若い雄羊を用意しました。5日間共に過ごしたその羊をほふり、肉は食べ、血を家の鴨居に塗りました。血を塗らない家の初子は、みな打たれると伝えられていました。そして、実際に「過越」の朝、エジプト中に悲鳴が響き、イスラエルの人々は出発することになるのです。10の災いを必要としエジプトに悲劇をもたらしたファラオの頑なさが責められるべきでしょうか、神を恐れず鴨居に血を塗らなかった人の傲慢さが示されるべきでしょうか、それとも神の容赦ない有様に恐れ、悲しみ、怒り、悔改め…そのままを差し出すのでしょうか。▲神が血を塗った家を「過越」された出来事は、後々まで祭りとして覚えられていきました。そして、モーセの時代から1300年を経て、イエスキリストはあえてこの過越しの時期に十字架へと向かわれます。前の晩に弟子たちにパンと葡萄酒を分け、それは、自分の肉であり、血であることを示し、ひいては、過越しで捧げられる小羊となられることを示していました。やがて、動物を犠牲とする「過越し」は、主イエスの十字架を覚える「主の晩餐式」へと変わっていきました。それは、今でも教会で続けられています。▲「過越し」とは何だったのかを考えています。「見逃し」とは、違うのでしょう。そこに義はありません。人の同情と駆け引きの中ではあり得ても、神との間には貫き通せない矛盾が残ります。「見落とし」とは違うのでしょう。神は、見落としをされる方ではないのでしょう。果たして、過越しを自分は望んでいるのかと考えています。自分は鴨居に血を塗っただろうか。み使いが打つのを通り過ぎる、過ぎ越すのを望んだかということです。自分の有様はどうかと思います。人様に迷惑をかけるのだけはダメだという文化の中に生きています。責任感が強いのか、傲慢なのか、過ぎ越されるよりも、自分で始末をつけようとするのが私たちの有様に思えます。わたしのために犠牲はいらない、血はいらない、そう生きているのではないか、そう感じています。過越しによって、民たちは、年に一度、その初めに、神に向かって、もう一度生きることへと促しました。主の晩餐式は、私たちを神に向かって、もう一度生きることへと促します。もう一度、神を恐れて、神だけを恐れて生きる。神だけを信頼して生きる、そのことへと促します。羊を屠殺して、血を玄関に塗りは、しません。神が新しい契約をくださいました。すでに過ぎ越されていることを信じるものです。過越しは、神の見逃しでも、神の見落としでもありません。神は罪を赦しませんでした。イエスキリストが流された血が必要でした。しかし、それによってのみ罪人は、赦され、生きるを再び得るのです。 


2017年4月9日

「共に目を覚ましていてほしい」

犬塚 契牧師

少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」…立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。 <マタイによる福音書26章36>  

 極度の緊張によって、毛細血管から滲んだ血が汗となって流れたと言われます。それほどまでにイエスキリストが恐れたものは何かと思います。後の殉教者たちの死に向かう様と比べて、イエスキリストのその十字架前の有様は英雄的ではありません。あの晩は、一人でいることができませんでした。誰かにそばにいてほしいと願いました。父なる神と二人になるのを避けたようにも思えます。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」主イエスの狼狽とは何だったのでしょうか。抵抗なき逮捕、抗議なき裁判、理不尽な十字架刑の先は、神の国の広がりでなく消滅ではないかと思われたのではないでしょうか。祈りが届ないという恐れ、聞かれていないのではないかという絶望、父なる神の沈黙の前に、人であるイエスキリストは、徹底的に苦悩したのではないかと思います。「神に聞かれない祈り」という現実は、人が震え、脅えるに本来十分なことでしょう。ハナから祈らない者には、その一部も知りえない深淵です。主イエスは、オリーブ山での祈りの中で、向こうからユダとローマ兵の足音を聞きました。杯は取りけられはしませんでした。御心は示されました。そして、主イエスは言われます。「立て、行こう」▲重すぎるような杯をそれぞれがいただいています。取りのけてくださるようにと祈るようなそれです。ゲッセマネの園の祈りを私たちも経験します。しかし、主イエスはそこに私たちを置き去りには去れません。「立て、行こう」との声を先にかけられます。復活は、十字架の後にあります。



2017年4月16日

「あなたの魂が恵まれているように」

犬塚 修牧師

「愛する者よ、あなたの魂が恵まれているように、すべての面で恵まれ、健康であるように祈っています」(2節)  <ヨハネの手紙V1〜4節>  

 今朝は、「受難日礼拝」である。主イエスキリストは、なぜ、十字架にかかった時、激しい痛みの中で「エロイ、エロイ、ラマ サバクタニ」(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)と叫ばれたのか。ある人は、これは敗北者、心の弱い者のつぶやきと言う。また、神の子ならば、堂々と、自分の死を静かに受け入れ、潔く死ぬべきだと言うもいる。しかし、もし、主イエスがそのような振る舞いをされたならば、私達の救いはありえなかった。▼この叫びは、実は、苦しむ私達自身の叫びだからである。私達も人生において、「なぜこんな辛い事が起こるのですか」と不可解な出来事に失望し、落胆する時がある。自分の抱えている重大な問題にたじろぎ、絶望する暗黒の時もある。そのような私達の苦しみを、主は知り、そのすべて、引き受けて死なれたのが、イエスの十字架の意味である。「なぜ?」という人生の深刻な疑問が、真に解決するのは、私達の心の持ち様によるのではない。主が私達と共に、一切の絶望を味わい、苦しみのすべてを引き受けて死なれた。このイエスの死こそが、人生最大の悩みを根本的に解決するのであると信じる。▼私達が3000穏円の借金をしているとする。それは決して返す事のできない巨額さである。だが、誰かがそれを肩替わりして、全額を返されたとしたら、感謝と歓喜が出てくる。このように、主イエスが私達のために流された十字架の血は、私達の罰と呪いを、一切取り除いたのである。▼ゆえに、主イエスを信じる事が非常に大切なのである。そして、信じた人の魂は恵みに溢れる。「恵み」は「良い、楽しい道を旅する」の意味を持つ。主イエスは死んだ後、復活して、私達と共に歩かれる。それは大きな平安の道である。魂だけでなく、実生活のすべてにおいて、主イエスは私達に伴い、楽しく旅をして導かれる。▼その道は「真理の道」と呼ばれる。もし、私達がこの道から外れ、脇道に足を踏み入れたならば、多くの傷を負う事となる。脇道とは「偽りの道」のことである。それは、非寛容、裁き、冷たい評価を突きつける暗い道である。一方、真理の道は、「万事を益とする」(ローマ8:28)。万一、辛い出来事に遭い、絶望する事があっても、神はそれを「善いもの」に変えて下さる。鶏が醜いムカデを食べているのを見て、私達は驚くが、それが美味しい卵のなるように、どんなに悲しみも苦しさも、主にその問題を差し出して祈るならば、必ず、道は開かれていくのである。



2017年4月23日

「なおなお生きる」

犬塚 契牧師

婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。          <マタイによる福音書 28章>   

目に見えない神の本音を知るのは不可能です。目に見える人間の本音を知るのだって、かなりの労力が必要ですから…。子どもは若干ストレートな反応をしますが、大人になるほどタテマエとの使い分けを覚えていくものです。本当に大事なことは最後まで言いません。言えません。神の本音とはなんだろうと思います。旧約聖書の数多の律法、象徴的出来事、守るべき祭儀…神は本当はどんな言葉をもっておられるのだろう、そう思います。そして、イエスキリストという神の本音を聞くのです。神が本当にどう願っているのか、どう理解しているのか、どう導こうとしているのかイエスキリストによって知るのです。その誕生のクリスマスからして、誰を歓迎しているのかを知ります。かなたの異邦の博士たちを招待し、汚れた羊飼いたちの訪問を喜びました。そんな誕生があります。イエスキリストの生涯においても、誰に声をかけ、誰と共に食事をし、誰の家に泊まり、誰を弟子とし、どのようにふるまったのかを知るとき、そこに神の本音を聞きます。ともすると、私たちは自分の地声が大切になり、大きく心占めるようになります。経験や感情に支配されたその声は、説得力があるように響きます。しかし、神がどのような語り掛けをしておられるのかが、私たちの人生において、決定的に大切なことなのだと思います。そして、イエスキリストの復活の出来事を覚えます。ここにどんな声が響いているのかと耳を傾けます。復活の主イエスは、女性たちに言われました。「おはよう」新共同訳【カイレテ】を一般的な挨拶であることを訳したのでしょう。日常にある言葉、日常を覆う言葉、地に響く通奏低音です。この言葉は、「喜び、喜べ」とも訳せる言葉です。 



2017年4月30日

「のけもの」

犬塚 契牧師

十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」      <ヨハネによる福音書20章>   

双子(ディディモ)と呼ばれていたトマスの兄弟の行方は聖書には書いてありません。兄弟でイエスに従った弟子たちもいる中で、トマスの場合は一人でした。妊婦の胎内の様子が分かる今と違って、出産時の二人の子の誕生は当時は驚きと恐れの対象でもあったでしょう。トマスの辿った歩みを想像してみます。彼のエピソードは多くありません。この疑いの場面とラザロの復活の場面です。憎悪渦巻くエルサレムにラザロに会いに向かうイエスの姿勢に、並々ならぬ決意を感じとり、「わたしたちも行って一緒に死のうではないか」というトマスです。勝手な想像かも知れませんが、生き方の方向性として破滅的に思えます。一人の人として、なんだか抗えない悲しみを垣間見えもします。他の弟子たちが一緒の場面で、トマスだけがその場にいなかったとヨハネ福音書は記します。だから、復活を疑うのです。「あの方の手に釘の跡を見、この指を…」と実に生々しい言葉を残します。なぜこんなにも激しい言葉が、トマスからついでたのかを考えてみます。不信仰とか疑いの代名詞のような弟子トマス…しかし、トマスの疑いとは、むしろ悲しみの裏返しではなかったかと思えます。イエス復活の事実の如何ではなく、彼抜きでも十分に進行していく神の働きに彼は「のけもの」なる自分を知らされ、人生もう何度目かの孤独を味わったのではないかと。きっと私たちの日常にも転がる寂しさでもあります。▲…主イエスは、トマスを無視されませんでした。一週間後、トマスに現れ「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」と言われました。そして、ヨハネ福音書は、トマスの信仰告白で閉じられています。▲トマスは、答えて「わたしの主、わたしの神よ」と言った。 




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