巻頭言
2016年4月


2016年4月3日

「ごはんですよ」

犬塚 契牧師

 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。  <ヨハネによる福音書21章1-14節>

 「あなたが聞きたい言葉は何ですか?」というアメリカで行われたアンケートで、一番の多かったのは、「あなたを愛しています」だったそうですが、それは、半ば予想を超えるものではありません。弱っている時には、特にその言葉は心に届くものでしょう。二番目は、「あなたを赦します」だったそうで、心にはずっと他者への負い目があるものだなぁと思います。そして、三番目は「ごはんですよ」だったそうです。先日、出かけた老人ホームで、廊下にごはんの匂いがして、とても安心したことを思い出します。▲すでに復活のイエスキリストに出会っています。そして、20章で派遣の使命も受けています。「イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」(20:21)しかし、7人の弟子たちは、また漁に戻りました。『「シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。」』確かにイエスキリストの復活の喜びもあるでしょう、また目に新しい十字架の恐怖も残ったかも知れません。出来事に心がついて行かないことは、私たちも度々経験することに思えます。しかし、イエスキリストは夜の間も彼らを見守り、自ら食事の準備をされていました。▲獲得すること、保有すること、保持すること、できること、なしたこと…私たちはそれらに絶大な価値を置く社会の中に暮らしています。きっとそうして発展してきた文明に生活が守られ、その便利さを享受もしているのでしょう。一方で「ある」というそれだけのことには思いが至らなくなった気がします。湖畔でのこの会食に「できる」「できない」「とれる」「とれない」が大事だったのでなく、主イエスとともに「ある」ことだけが決定的に大切で、心に慰めとして残ります。



2016年4月10日

「覆いが取り除かれた」

犬塚 契牧師

 神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」 <ヨハネの黙示録1章>

 ヨハネの黙示録の時代背景は、90年代のドミティアヌス帝による迫害下にあります。「主にして神」を自称する皇帝の統治下で、イエスキリストへの信仰を守ることは戦いでした。ヨハネも水の作物も取れない島に流されてしまいました。老いたヨハネの体には、よほど堪えた仕打ちだったと想像します。厳しい場面においては、人生の経験や過去の励ましがその人を支えるということがあると思います。「あの時も大丈夫だったのだから、今回も…」とその時が過ぎるのを忍ぶことがあるでしょう。しかし、当時のキリスト者たちの過酷には、過去の支え以上の何かが必要だったように思えます。それがヨハネが幻を見せられ、なおこれから起こることを示された理由だったのでしょう。ヨハネの見させられた幻は、小さな島での拘束という現実を超えて、なお慈愛と力に満ちた神の支配を思い起こさせました。ローマ帝国に散らばった教会とイエスキリストへの信仰を表したキリスト者は、そのことを確認して励ましあったのでした。▲1章1節「イエスキリストの黙示」から始まる黙示録ですが、「黙示」とは「覆いが取り除かれる」ことを意味しています。なお深まる闇なる世界のうちにあって、だからこそ極まる光があり、燦然とイエスキリストが指し示されていく希望が始まります。ほかの何でもない、イエスキリストの父なる神こそが「アルファ」(はじめ)であり、「オメガ」(終わり)であることが、人を正しい位置へと導きます。考えてみれば、希望したのでもなく、日付を指定したのでもない誕生が私たちの人生の始まりであり、神の造られる歴史の途中から参加し、その途中までを埋める者に過ぎません。自分が「はじめであり、終わりである」との錯覚は、人を神へと押し上げますが、それは苦しいことだと思います。人は神役を引き受け得ないし、その必要もなく、むしろ罪です。「わたしはアルファであり、オメガである」…神の前での中途半端に嘆きやうめきがあったとしても、それでよいのだという安心が流れます。



2016年4月17日

「安心して…起きなさい」

犬塚 契牧師

 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。 <マルコによる福音書5章>

 会堂長ヤイロの12歳の娘の命が病によって消えかかっています。十代前半は普通ならば結婚相手を探し、新しい家族が増え、これからを期待し、希望ある良い時のはずでした。しかし、今、それら一切が奪われようとしていました。また、すでに会堂での宣教から締め出されていたイエスキリスト一行に会堂長がお願いに行くことは、ヤイロの家族が社会的にも経済的にもこれからが危うくなることを意味していました。身内や近しい人たちは止めたことでしょう。何よりも今は危ない娘のそばにできるだけいてあげることがふさわしいことかもしれないのです。しかし、ヤイロは出かけていき…『イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」』群衆も混じった一行はヤイロの家に向かいました。そこに12年間も出血が止まらない女性が紛れ込み「「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ってイエスキリストに近づき服に触れました。ユダヤの社会では、血を流す女性は、穢れの中にあるとされ、人の中に交じることはできませんでした。彼女は病状を隠し、ひそかに行動したのです。そして、その願い通りに病は癒されはしました。しかし、ごった返す群衆の中からイエスキリストは衣を触った人を探されました。ヤイロの家に急ぐ最中です。弟子の一人がみんなの声を代弁しました。「わかるわけがないでしょう!」。この女性もひどく叱られ、民衆からは石を投げられるかもしれないと恐れたことでしょう。続きは、上記聖書箇所。▲長血の女性の「迷信」に近い信仰に対して、イエス様が言われたことが慰めに満ちています。また、娘の死の知らせを聞いて、絶句するヤイロに、それを聞き流して前に進むイエス様の姿があります。「迷信」と「絶句」…。信仰の内実はそんなものかも知れないないなぁと自分を重ねて思います。それでもマルコ5章の深い慰めは、私たちの信仰の確かさを時に超えて、信じる方の確かさにこそあると指し示していることに思えます。



2016年4月24日

「初穂としての選び」

犬塚 修牧師

 「神はあなた方を救われるべき一歩としてお選びになったからです。」 <第ニテサロニケ2章13〜17節>13節

 私達は生きていると恐ろしい出来事に遭遇する時がある。パウロもテサロニケの教会に「今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示している事を神の諸教会の中で誇りに思っています」(1:4)と書いている。予期しない試練の中に置かれ、辛い苦悩を味わっても、神の助けと支配を信じて、生きるようにとパウロは励ます。又「あなた方は特別に選ばれた人たちである」と慰める。▼「選び」の原意は「つかんで上に引き出す」である。「モーセ」は「水から引き出される者」という意味である。彼は赤子の時、暴君によって、ナイル川に投げ込まれたが、神がある人に働きかけて、その命を奇跡的に救い出された。神は私達を試練、苦悩、悲しみ、失望、懐疑等の大河、また底なし沼から引き出される。もし、私達が生きる自信を失い、無気力になったり、絶望の底に沈んでいたならば、滅びは近い。しかし、どんな時でも、神の御名を呼び、助けを呼び求めるならば、心は次第に強められ、ついには希望に満たされ、復活の力を体験する。竹は暴風の中で、根を土中深く張り広がっていく。又、どんなに切られても、根はたくましく再生してくる。竹は主に従う人の生き方と良く似ている。▼更に「選び」は「下から支える」という意味もある。ルカ15章には、ある羊飼いが100匹の羊を有していたが、その中の一匹の羊が迷い出てしまったので、必死で探し求める姿が描かれている。「99匹も残っているのだから、そんなろくでもない1匹など捨ててしまえば良いのに…」という声もあったかもしれない。しかし、羊飼いは迷うその羊を追い求める。それはキリストのお姿を暗示している。主は、罪に迷う羊のような私達を見捨てず、命がけで追いかけ、ついに見つけ出した後は、肩に担ぎ、大喜びで帰られる。▼さて、この羊が羊飼いの肩越しから見えてきた世界は、これまでの視界とは全く違っていたであろう。以前は牧草を食べる為に、下だけを見ていたが、今は、信じられない程の広やかな世界が目に飛び込んできたのである。主と共に生きる時、新しい世界が展開されていく。パウロは「永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって下さる」(16節)と書く。人間的な慰めは一時的なものであるが、神が用意される慰めは永遠的であり、希望も盤石のようなものである。無に等しい者を選び、永遠の祝福の世界に引き出して下さる主を賛美して、従って生きたいものである。




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