巻頭言
2015年4月


2015年4月5日

「神を知る」

犬塚 契牧師

 人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知る者はいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。 Uコリント2:6-16

 イエスキリストのエルサレム入城から、十字架までの受難週を迎えました。復活へと続きます。神の御子イエスキリストが苦しみの中を通られたこと、痛む必要のない神が痛まれたのだということが、救いようのない世の中への救いとなるでしょうか。考えてみれば不思議なことです。天地の創造主なる神の関心やまなざしが、加速度を増して広がっていく宇宙に散らばった宝石にあるのではなく、どうかと思うような人の在り様の中にあるだということです。それは、当たり前のことではないように思えます。「きっと、誰も分からないのだ」という心の奥にこびりついた一言は、主イエスキリストのまなざしの前では、霧と変わります。詩編139編の記者が、知られることへの恐れから、逃れる場を探しますが、それが叶わずに、むしろ神に知られることは、先行する恵みなのだと気付いてくようにです。キリストへの信仰によって、「神からの霊」が与えられるとパウロは書きました。それには、人が思い描くような実感や神がかり的な感情の伴いが必要なわけではありません。私たちは静かにも神の御想いを知らされます。過ぎゆく時の中で次第に知らされることも、日常のきらめきのような価値もあるでしょう。感謝にも私たちの内側には、それぞれの心にしか知りえない神との接点があるようです。理屈での説明を求められれば、少し時間がかかりますが、それぞれにおいては時々の慰めを受ける福音の形です。



2015年4月12日

「神、深くに」

犬塚 契牧師

 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。…ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。             <使徒言行録1章3−11節>

 1000年以上も、続けてきた土曜日を安息日としてきた歴史の中から、紀元30年頃から日曜日を主日として礼拝をささげるようになった人々の存在。恥ずべきローマの死刑囚を救い主として信じるようになった人々の集う教会の誕生とその広がりの不思議。十字架の日に、逃げて行った臆病な弟子たちのその後の宣教の大胆さ。復活の証人の生存中に書かれた福音書の数々の証言とそれに自分だけでなく家族のいのちも殉教にさらすまでの希望。福音書証言の相違に整合性をつけようとも、細工をしようともしない命あるそのままの息遣い。そして、神は死を勝利させたままにするつもりのないという神の意志への内なる魂の反応。…復活は、そうとしても昇天はどうなのか。むしろ弟子たちの間を自由に遍在されたようにイエスキリストは地に残り、再び天に昇ることなく生き続けたほうが望ましかったのではないか。時々、うずくまって祈りながら、今日、目の前に現れたりはしないであろうイエスをむしろ不思議に思う。「今日が、今が、出番ではないのでしょうか。」神へ願いとか祈りというよりも懇願を超えての要求に近いように思う。昇天への恨みも思う。弟子たちが「イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」と期待した次の場面でイエスは昇天された。弟子たちは梯子をはずされたのだろうか。ポカンと口をあけて、空を眺めた彼らの顔が浮かぶ。昇天の前にイエスは不思議なことを言われた。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」神は、受肉した体をさらして地に生き続けること以上に、神、さらに深くに私たちの内に住まわれることを願われた。



2015年4月19日

「正しき者は」

犬塚 契牧師

 アブラハムは言った。「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません。」主は言われた。「その十人のためにわたしは滅ぼさない。」主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った。     <創世記18章16−33節>

 18章の後半部分、主と主の御使いは、ソドムを滅ぼすことをアブラハムに告げました。「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか。」甥ロトの家族が暮らすその場所の良からぬ噂をアブラハムも聞いてきただろうと思います。それでも彼は、執り成しをします。神と人との間に立って懇願をします。ソドムの町に50人の正しい人がいてもあなたは滅ぼすのかと。正しい人だけを救って欲しいのではありません。正しい人がいたならば、町を救って欲しいと願うです。50人の正しい人がいたならば…。必死の思いつき、とっさに出た数字でしょう。少し冷静になあると、ひょっとしたら50人はいないかも知れないと思い直し、45人と譲歩を願います。その後は40人、30人、20人、10人、神とアブラハムの駆け引きがあります。駆け引き…でしょうか? 50人から10人になった時にもう人数は意味をなさなかったように思えます。最後の正しき人々として、ロトの家族の顔が浮かんだのでもないでしょう。根源的な問いの中で、人は、神の前に正しくあるのか。一人でも誰かそれに耐え得る人がいるのだろうか…。それは神だけが知ることであり、10人という最小単位を神の前に提示する以外に彼にできることはなかったように思えます。10人を受け入れてもらい、よい交渉ができたと満足して帰ったわけではないのです。結果、ソドムには一人の正しいものもいませんでした。人の絶望なる有様があります。パウロは書きました。「正しい者はいない。一人もいない悟る者もなく、/神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」(ローマ3:10−12)しかし、絶望の果てに見える救いがあります。ローマ5章「そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。」イエスキリストの執り成しゆえに生かされてある身。



2015年4月26日

「更なる開眼」

犬塚 修牧師

 「そこで、イエスがもう一度両手をその目に当てられると、よく見えてきていやされ、何でもはっきりと見えるようになった」(25節) <マルコによる福音書8章22〜26節>

 ベツサイダの村民が、一人の盲人をイエス様の所に連れて来た。この伝道のわざによって、盲人の人生は一変した。私達の心の眼が開かれるためには、主と出会う以外に道はない。村人は最高の友愛を示したのである。さて、主は彼を村の外に連れ出された。主は彼と一対一という深い人格的な触れ合いを求められた。人間が誰一人入り込めない静寂と孤独の中で、主は彼と向き合われた。また、主はご自分の両手を傷ついた眼に当てて癒し始められた。そしてついに、彼の眼に光が灯ったが、まだ完全ではなかった。そこで、再び主は同じ癒しの行為を行い、完全に開眼するに至った。▲さて「見える」はいずれも別の原語が用いられている。「盲人が見えるようになって」(24節)は「見上げる」と訳する事ができる。私達は周囲を見渡し、強い人間関係を保つ事で、問題を解決しようとするきらいがあるが、それには不完全さと限界がつきまとう。真の解決のためには、何よりも、主を見上げる事が肝要である。▲第二は「良く見えてきて」(25節) である。これは「見ぬく、洞察する」の意味で、物事の本質を鋭く見通す視点である。9どうしても目に見える現実に心を留めて、憂える事が多いが、重要な事は、主のみ言に従って生きる事である。この世の中は千変万化であり、移ろいやすいが、神の言は永遠に不変であり、巨岩のように盤石である。み言を確信して生きる人は、現実の世界から襲いかかる恐怖や心配に侵されない。いかなる状況であろうとも、主の愛の支配を信じて生きる事である。▲第三は「はっきり見える」(25節)である。これは、「心を込めて見る・考える」と言う意味を持つ。盲人はすぐに、完全に癒されたのではではなく、徐々に見えるようになった。信仰の眼も同じような癒しの過程をたどる。まだ不十分な眼に、主は二度も触れて強くされた。モーセに率いられたイスラエルの民が、紅海を渡ったという救いの出来事(出エジプト記15章)は一回限りでなく、再度行われた。ヨルダン川渡渉(ヨシュア記4章)がそれである。偉大な救いの出来事は、再度、起こされるのである。ゆえに私達は確かな希望が与えられている。ここに「なんでも見える」とある。私達の心眼は地上のみならず、天国の世界も見る事がで許されている。感謝しかない。




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