巻頭言
2014年4月


2014年4月6日

「よい実を結ぶために」

犬塚 契牧師

 これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。   ガラテヤ書 5章

 宣教師パウロがガラテヤの教会に送った手紙。あいさつ抜きの激しい言葉。ガラテヤ教会には、「やっぱりなんだかんだ言っても律法も守らなければいけないんじゃないだろうか」という教えが蔓延していました。イエスキリストの十字架だけではなぁ…、キリスト様も大事だが、人様もやる時はやるんだ…。2章を読むと、ヤコブもペトロもバルナバもなんだかぼかされていたようです。パウロは譲りませんでした。「けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。」(2章)。ルターがガラテヤ書を読んで、宗教改革を始めました。「律法の行いではなく信仰によって!」との言葉によって、私たちはやはり自省の中で「ほっと」する。律法に達し得ない故の顔面の蒼白に、ようやく血が流れるべきなのです。顔は赤らむのです。▲ガラテヤ書は、自己中心のことを「肉」と表現します。5章には、その自己中心が結ぶ実の列記があります。肉(自己中心)には大きな決断も努力もいりません。人生を 賭けて、一大決心しなくとも、肉の実は育つのです。それは手入れをしない畑地の雑草に似て、いつの間にか撒きもしないのにはびこります。対して、霊に導かれて歩むとは、決断的に生きることを表しています。「霊の導きに従って」と書かれているのを聞くとなんだか「聖霊」によってのいつの間にか、肉なる人間が愛する人間に代わっていたり、自動的に心が洗われていたり、自然に善き実ができあがっているというようなイメージをいだきますが、しかし、キリストが与えてくださった自由とは、主体的に生きることであり、善きことを正しく決断することです。キリストはすでに世に対して勝利をされました。肉が有終の美を飾ることありません。それに信頼して、何度失敗をしても、再び新しく決断していくものでありたいのです。



2014年4月13日

「美しき春に」

犬塚 契牧師

 わたしたちの神、主に並ぶものがあろうか。主は御座を高く置き なお、低く下って天と地を御覧になる。弱い者を塵の中から起こし 乏しい者を芥の中から高く上げ 自由な人々の列に 民の自由な人々の列に返してくださる。       詩編113編

 新聞もテレビの見ないのですが、それでも聞こえてきます。彼女があんなにも叩かれるのは、歪んで美しさを求める文化に生きているからのように思えます。理研の星と呼んで綺麗な30才の女性研究者を熱狂的に歓迎した文化は、その星に陰りが見えた途端に猟奇的にいじめはじました。すごい空気をもっています。本当の義さ、善さ、美しさとはなんなのでしょうか。詩編113編には「美しい」という言葉はありませんが、美しさが書かれています。▲詩編113篇からは、「ハレルヤ詩篇」と呼ばれ、過越祭で歌われていました。イエスキリストの最後の一週間もまた弟子たちとこの賛美を歌いながらゲッセマネに祈りに向かったのでしょう。これからの受難に向かう姿が重なるようにそのまま描かれたような歌です。▲「低く下って」と訳された言葉が、神ご自身に使われているのは、聖書の中で詩編の113編だけです。聖書が示す美しさとは、私たちが歓迎するような、姿かたちの美しさや、傷なく、落ち度なく、ほころびなく、完璧と定めて、鑑賞して、ふけるような美しさではありません。また、人間が持つ苦しみ、誰にも言えない悲しみ、表現できない情けなさ、そういうものを切り捨てたり、飛び越したりの悟りの世界に美しさを見出すのでもありません。悲しみのただ中に主ご自身、神ご自身が下ってこられる、その行動、方向性に詩編の記者は美しさをみたのです。▲想像を超えた高さにある神が、どうにもならない一人一人の生きなければならない闇に降りて来てくださった。それは聖書の示す美しさであります。人間がマイナスを背負う時やマイナスを背負った人と歩もうとする時、吸い込まれそうな絶望の淵、悲しみの淵から、なおイエスキリストの言葉が聞こえてきます。そこでしか聞こえない声は、生きることの底を支える響きをもっています。



2014年4月20日

「すべてのことが成し遂げられた」

犬塚 修牧師

 「イエスはこのブドウ酒を受けると「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた」                 ヨハネによる福音書19:28〜30

 今朝は受難日礼拝である。主イエスは私達の罪のため、十字架にかかり、すべての罪を赦し、救いを完成して下さった。そして大声で「すべてが成し遂げられた」と最期の息を引き取る時に叫ばれた。佐賀の吉野ヶ里遺跡に、首なし白骨体が発見された。当時の指導者は敵との戦では、先頭に立って勇敢に戦った。イエス様も率先して、私達のために死んで下さり、自らが犠牲となって、私達の命を守られたのである。主は貴い死によってすべてを完成されたのだ。▲私達は「まだ私は何も成し遂げていない。また何の役にも立っていない」という未達成感や不全感にとらわれたり、自責の念に襲われる時はないだろうか。更に「完璧であれ」という完璧主義に苦しむ事はなかろうか。しかし、主は私達のすべての重荷を背負われれた。従って、私達は主の完成の業を感謝し、信じて賛美をもって生きていくだけで良いのである。▲創世記の「天地創造」では、神のみ業の完成の後、神は安息された、とある。「さあ、私が創造を完成したのだから、これからはお前たち人間が必死で働け、頑張れ」ではなく、「安息せよ、休め」と記されている。つまり、私達の生きる力は安息、感謝、喜びの中から生まれてくるのである。主によって十分に安息できた人が自分の力を発揮する事ができるのである。▲神の完全さに包まれて生きよう。私達がいかに弱く貧しくても、主の完全な恵みを確信して歩もう。私達のする事は限界があって、完成に至る事はむつかしい。主が成し遂げられたみ業を信じる時、私達の不全感や欠乏感は満たされていく。▲いかなる厳しい状況下にあっても、すべてを感謝する生き方を貫くならば、その人は人生の勝利者と呼ばれる。「レビ人の家系の長であるである詠唱者たちは、祭司室にとどまり、他の務めを免除されていた。彼らは昼も夜も果たすべき努めを持っていたからである」(U歴代9:33)とある。私達もなすべき務めを免除されている。ひたすら感謝と賛美に生きていきたいものである。



2014年4月27日

「石はわきに、主は先に」

犬塚 契牧師

 さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。 マルコによる福音書16章7−8節

 診察室の診療の際に行われたというテスト?何のためのテストだったのか、今もって思い出せませんが、それは「頭に白い球を浮かべてください」から始まります。それを黒い球で消すことをイメージさせます、次に再びその黒い球を白い球で消します。そして、最後に脳裏に浮かんでいる白い球を再び亡くそうすると…自然と黒い球が浮かんでくる。そんなことを気づかせるテストです。人は、空っぽには耐えられない、入れ替える作業が大切なのだよというメッセージをもっているのでしょうか。かつて聞いたそんなテストのことをふと思い出します。▲マルコの写本のいくつかが明らかにしているように、マルコの書いた福音書の結語が、8節の「恐ろしかったからである」までで終わっていたとして…。それはハッピーエンドとは見えないのだけれども、16章に至るまでに繰り返されたきたことが「人の不信」と「憐みの神」の繰り返しであるならば、書かれることのなかった8節の続きもまた表現に耐えぬほどの喜びの広がりでしょうか。恐ろしかった女性たちの押し黙りの延長で教会が立ったわけではないと思います。「誰にも言わなかった」が結語でない証拠を私たちの捧げる礼拝にみていきたいと願います。「わが神、わが神、どうしてわたしを見捨てたのですか」という神の子の叫びと抗いのない惨死、「神なら神らしくしろ」という人間の嘲り、想像を超えた恐ろしい沈黙の金曜日が確かにあります。それでも復活は、神の本音を宣言します。神は死を勝利とするおつもりはないのだと復活の出来事を信じて、知らされるのです。





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