巻頭言
2012年04月


2012年04月01日

「召しに従って」

犬塚 契

 こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっているわたしパウロは……。            エフェソの信徒への手紙3章1節

 3月18日に臨時総会において、「新しい時代の宣教に向って−南金目の298坪の土地と建物の取得−」という議案が決議された。賛成28、反対26、白票1という結果だった。議場の雰囲気は、圧倒的に「否決」されるような流れであったから、開票の結果をみて賛成も反対もなくみんなが驚いた。総会後にこれからの舵取りを心配して牧師室で祈っていると修牧師も入ってきて共に祈った。先に聖書日課でいただいていたみ言葉を思い出した。「見よ、祝福の命令をわたしは受けた。神の祝福されたものを/わたしが取り消すことはできない。」(民数記23:20)▲総会後にすぐに電話をいただいて、撤回を進められた。「難しすぎる」とメールをいただいた。牧師一人で総会の決定をひっくり返していいものだろうかと思った。やはり通り難しすぎるから祈った。ずっと心臓を握られているような感覚があった。きっと教会に集う一人一人がそうなのだろうと思った。ふじみキリスト教会のこれまでと同じように多数決での決議であったが、誰もが安心できるような数ではなく、誰もが痛みに覚えるような出来事となった。数に逃げ込めない、多数に安心できないことがこんなにもうろたえるものなのかと思った。「信仰」を語りながら、私は結局自分の経験上信じられることだけを信じてきたのだと知らされた。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブル1章)。しかし、こんなことでもなければ真に教会を身に受けることがなかっただろうと思う時、今回のことが特別な祝福に感じた。信仰の耐久テスト中だろうか。「ローマの囚人」がキリストの囚人だと自己紹介するまでの過程や苦難を栄光と理解するまでの歩みの深さをエフェソの3章に読みたい。



2012年04月08日

「広げられる愛」

犬塚 契

 こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります。…どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。  エフェソ 3章14節〜

 立って両手を天に向けて祈る当時のスタイルとは違ったパウロの祈りの体勢は、心の姿勢も表しているだろうか。自分の心の位置をどこに定めているだろうと省みる。“ひざまずいて”祈ることをなおざりにしてしまう“行動の時代”を生きる私たちにとって、パウロの魂の定位置を知り、それを共有する者でありたい。▲現在の霊的な病は何かと聞かれたトマス・マートン司祭は、「能率」と答えたという。ずっとそのことを追い求めて、気付けば追われているような、ちっとも休まらない状態が確かにある。きっとひざまずく場をいただく必要があるのだろう。そして自分以外の人のために祈る“とりなしの祈り”の場でもある。それは自然に湧き上がってくるようなものではなく、相手が置かれている状態の想起や深い同情と理解が必要とされる。心巣作る自己中心を知らされつつ、神の深い憐れみによってパウロの祈りのごとく心の内にイエスキリストを住まわせてくださり、愛に立つものとしてくださるようにと切に願う。▲パウロは二つのことを祈った。キリストを心の内に住まわせることと、キリストの愛の深さを知り続けること。何を学ぶに増して、どんな知恵にましてイエスキリストを知らされていきたい。▲「…父なる神は説教を徹夜で喘ぎながら準備する私たちの説教者の声を用い、あおの教会員をも礼拝の奉仕者として用い、音程がずれ、テンポも乱れた会衆の賛美歌さえ迎え入れてくださる。何と不思議なことだろう。この世に、これ以上の奇跡があろうかと思う。」(平野克己牧師)



2012年04月15日

「はじまり」

犬塚 契

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。  ヨハネによる福音書 20章19−29節

 十字架の金曜日、人々は神を待った。いよいよ神の出番だと。もし神が登場するとして、今日以外に相応しい日はないし、考えられないと。今にとんでもないことが起きるはずだ。マルコはその期待をこう書いた「ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。」(マルコ15:36)神の介入、働かれた形跡は見当たらないし、奇跡も起きなかった。期待はずれだし、大きな失望と結局の絶望がすべての空気を飲み込んだ。あぁ神はいないと結論付けることができた。しかし、復活はその結論にまったをかけ、くつがえす。覆水盆に返す。神は確かにあの沈黙の日も働かれていたのだと復活は語る。神の臨在がまったく感じられなかったとしても、しかし、実際にはあの場所に神はおられたし、起きている出来事も知っておられた。▲理性と経験をどこまでも拠り所とするトマス。そして、私。しかし、復活はその人間の経験、理性を超えて、神の約束を信頼するべきなのだと教えてくれる。人生のどん底…だとしても神は我らと共におられる。散々たる有り様…だとしても神は我らと共におられる。イエスキリストは傷をもったまま復活された。それは人間の苦しみがどんなであるのかを経験的に知り、理解できる神の姿に他ならない。弟子達は自分も磔刑に会うことを恐れて、家に引きこもった。その苦しみのど真ん中に「平和があるように」とイエスキリストは告げられた。神への信仰・信頼は、復活こそはじまりと理解させ、神が愛する者をどうされたいのかを知る確かなる手がかりと変えないだろうか。



2012年04月22日

「整えられて・・・先週の説教要旨」

犬塚 契

 そこで、主に結ばれて囚人となっているわたしはあなたがたに勧めます。神から招かれたのですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し…。 エフェソの信徒への手紙 4章1節

 エフェソにある教会への手紙の前半部分である1-3章までは、神が人のためになしてくださったことが記されてあった。例えば1章…「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」1章4節。人から言われたことはしばらく気にかかり、よく馴染んでしまうのはあまりにその中に置かれてきたからだろうか。そして、神の愛の宣言がよくよく馴染まないとすればさらにその中に身を浸すことを覚えていきたい。ヘンリーナーウェンは、そのために私たちが心すべきこととして、原寸大の自己理解を深めたり、自分の心の傷を受け止め、貧しさを認めながら、それでも「あなたは私の愛する子」という神からの愛の声に信頼すること、それに耳を澄ます祈り(観想の祈り)を続けることをあげる。そのとき、致命的な自己拒否の病は、徐々に癒されていくのだと。▲4章からは、人がなすべきことが書かれ始める。その初めは、「一切高ぶることなく」とある。同じ言葉を、口語訳、新改訳は「謙虚」「謙遜」と訳す。W・バークレーという人は謙虚さが生まれる場面というのは、3つあると書く。@いつわりのない自己認識 Aキリストとの比較 B被造物性(神への絶対的依存)。言い換えれば、本当に自分の生きているところを知らされること、いささかの善行をしている自分に酔うことなく他の誰と比較するのでなくイエスキリストを目標とし、神の実在の中で造られ生かされているという被造物性の認識から地に足着く歩みがあると。よき季節、心静めて歩みを進めたい。



2012年04月29日

「新しい道・・先週の説教要旨」

犬塚 修

 「神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。。」 エフェソ4:24

 自動車の免許を取得して40数年になるが、何度か違反を犯して、罰金を支払った事を思い出す。その経験を通して、数々の失敗に我ながらいやになったものだ。さて「分かっちゃいるけど、またしでかした」という愚かな行いは、日常にて経験する事と思う。そのような失敗を繰り返す原因は、物事に対する自分自身の甘さと過信にあると反省する。自分なの弱さを克服するために、いかに理想的な倫理感、道徳意識をもってしても、無理な気がする。人間は誘惑に弱い。もし、それらに打ち勝つことか可能な救いの道があるとすれば、それは、今までとは異なる新しい衣服を身につけることである。それが「新しい人」である。「馬子にも衣装」の諺のように、私達は自分が着ているもので、心をコントロールする。凜とした結婚式の服を身にまとった花婿は心身とも、清い愛で満たされているので、犠牲的愛の生き方ができるであろう。逆に、洗濯していない汚い着物を着ていると、そのようにふるまうものである。「新しい人」は「キリスト」を着る事と同義である。私達の眼前には、いつも二つの着物が用意されている。一つ目は、この世の情欲にまみれた思いから差し出された古い着物である。二つ目は、キリストの聖と義に満ちた新しい着物である。もし、キリストが下さる着物を日々、選んで着るように努めるならば、生き方は清いものとなるであろう。それは「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合う」(31〜32節)生き方である。古い着物を思い切って脱ぎ捨て、新しい道に踏み出しましょう。


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