巻頭言
2011年4月


2011年4月3日

「希望」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。 ローマ5:2-5

 複眼的に起きてくる出来事が見えずに、自分の立ち位置からしかそれらを判断しないので誤解している場合が多々ある。確かめもせず、かなり強い“信仰”をもっての自己絶対化もあるだろうか。ときどき恵みによって、新しい事実を知らされることによって、それらが瓦解することもあって、そんな時は近視眼的な自分の判断を恥ずかしく思うし、小ささを知らされたりもする。▲パウロはイエスキリストによって、神と和解している人だった。神に近づけられることを何よりも喜びとし、あらゆる出来事一つ一つを神から与えられる恵みとして捉え成すことに長けた人だった。否、それは高等テクニックや前向き人生の習慣などを超えたことだったと思う。「聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれている」とパウロは書く。新しい宗教からテレビまで、苦難の軽減を目の前に運んでくれる。これがあれば幸せになれるとの話だったり、逆に“不幸”の犯人捜しも手伝ってくれる。買い物を迫るし、花瓶の置き場所、ベットの方向、その日の食べもの、着る物のチェンジを教える。▲「苦難をも誇りとします」とパウロは書いた。そして、続ける「だって、覚えてる?苦難は、・・・希望へと続いて来たじゃない!希望は苦難を玄関にしてやってきたじゃない!」。凍えるような獄中で賛美したパウロを思い出す。彼は、神様と仲良しだった。神を信頼して疑わなかった。十字架の主イエスキリストを遣わしてくださった神が、最後に梯子を外すことがあるだろうかと。▲イエスキリストが弟子達に望まれたことはなんだったろうか。器用さか才能か技術か・・・。望まれたことは“信頼”だったのだと思い出す。



2011年4月10日

「罪人を招くために」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり、わたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本となるためでした。         Tテモテ 1章15-16節

 母と祖母の大きな影響の中、若きテモテは信仰を持ち、パウロに育てられエフェソの教会の牧師になった。テモテへのパウロの信頼はすこぶる篤かった。それでもテモテは直面する問題にうろたえたであろう。1章の前半には教会に異端が入りこみ、どうでもいいような枝の話に終始する雰囲気があったらしい。教会に遣える者にはどれも心痛むに十分の課題だったと思う。百戦錬磨のパウロ先生なら上手に舵をとれるだろうに、自分はできないんだ・・・とテモテは落ち込んだだろうか。パウロのアドバイスはなんだったろう。▲かつてのパウロの姿を思い出してみる。ダマスコ途上、パウロの回心のシーン。パウロは見えていると自認していた、私は神を知っている、分かっている、信じている、私は正しいと疑わなかった。しかし、太陽よりも明るい光がパウロを照らし、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞く。そして、彼は思わず「主よ、あなたはどなたですか」と問うてしまう。神を知っていると思い込んでいたパウロが、神と出会い「どなたですか」と聞いてしまった矛盾。今までの歩みの一切が無に帰してしまうような人の有様。パウロの立ち所は、ぶっ壊された。しかし、テモテ。よく聞いてほしい。それが始まりだったのだとパウロは言葉を続ける。「そして、わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられました。」▲わたしたちの歩みの中に、「主よ、あなたはどなたですか」と問うことがあるだろうか。ふいに起きた望まざる出来事、信仰の延長になされていると思っていた事柄の挫折、見失った恵み・・・「主よ、あなたはどなたですか」と。それは神の働きのすべてを見ることのできぬ覆われた目ゆえだろうか。テモテもまたそうだったか。しかし、「キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになり・・・」とパウロが続けるように、ただ限りない主の忍耐の中にこそ信仰者の歩みがある。



2011年4月17日

「主イエスの祈り」・・・先週の説教要旨

犬塚 修

 イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った。いつもの場所に来ると、イエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言われた。そして自分は、石を投げて届くほどの所に離れ、ひざまずいてこう祈られた。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」すると、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。イエスが祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。イエスは言われた。「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。イエスがまだ話しておられると、群衆が現れ、十二人の一人でユダという者が先頭に立って、イエスに接吻をしようと近づいた。イエスは、「ユダ、あなたは接吻で人の子を裏切るのか」と言われた。イエスの周りにいた人々は事の成り行きを見て取り、「主よ、剣で切りつけましょうか」と言った。そのうちのある者が大祭司の手下に打ちかかって、その右の耳を切り落とした。そこでイエスは、「やめなさい。もうそれでよい」と言い、その耳に触れていやされた。それからイエスは、押し寄せて来た祭司長、神殿守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいたのに、あなたたちはわたしに手を下さなかった。だが、今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。         ルカ22章39〜53節

 @私と主イエスとの出会い…主イエスの出来事を聞いても、ピンとこないのはなぜか。自分の人生とは無関係に思えるからだ。だが、断じてそうではない。我々の方がそう感じても、主の側は全く違う。ここに登場する大祭司の手下にとって、イエスは敵の首領に過ぎなかった。彼はペトロの剣で、自分の右耳が切り取られるという激痛を味わった。その痛みは誰も理解してはくれなかったであろう。しかし、すぐに静かな声を聞く。「やめなさい」それはペトロをたしなめる主イエスの温かいみ声であった。そして彼は癒された。我々とイエスの関係はこれに似ている。主は我々の心身の傷ついた部位に手を置いて癒される。たとえ、敵であったとしても、差別はない。我々はこの手下と同じ立場と思う。 Aみ心のままにして下さい。…イエスは我々と同じ苦しみの感情を体験された。主は我々のすべてをご存知なのだ。また「み心ならば、この杯を取り除けて下さい」と血の汗を流して祈られた。また「しかし、私の願いではなく、み心のままにして下さい」と続けられた。これは祈りの最高到達点である。我々はあれか、これかという硬直した結論に流れやすい。そして願い通りならば、最高! だが、その逆ならば、もうダメだと理解し、悲嘆に暮れる。その中で、主イエスは「どんな結果もすべて良し」と万事を受け入れられた。熱い願いを忍耐強く持つ事は大切なことだ。しかし、たといそうでない結果になっても、それもすばらしい神のご計画だと信じることが肝要である。この「しかし」は暗い響きはなく、明るい響きがある。そこには神の可能性は無限な広がりがある。人生は気軽に生きられるものではない。もしそんな甘い考え方に陥っていると、願いに通りにならない現実に打ちのめされ、ぐちや怒り、怨念で満たされるであろう。人生には苦しみは伴うことも潔く受け入れ、それは「苦しみがい」のある人生であると確信しなければならない。我々の苦しみは絶望にいたるという空虚なものではなく、希望を生み出す創造的な産みの苦しみだからである。



2011年4月24日

「手をおいて共に生きる」・・・先週の説教要旨

日本バプテスト連盟 宣教研究所所長 濱野道雄

 そして、子供たちを抱き上げ、手を置いて祝福された。  マルコ10:16

 聖書にはさまざまな按手の意味とスタイルがでてくる。一番根本的な意味は、旧約聖書レビ記3章に登場する「犠牲の牛」の話しである。神殿でささげる犠牲としての牛や羊は屠られる前に暴れるが頭を押さえつけられる。そこには按手の原点がある。時が経た今も牧師が犠牲にささげられるように頭を手で押さえつけられる儀式を行っているのは面白い気もするが、覚えておきたいのは本来、犠牲としてささげられるべきは自分自身であるということである。自分の代わりに、牛に自分の命を託して、身代わりになってもらい、その厳粛な思いの中に屠っていく。そこではささげるものとささげられるものの命が、神の前につながっていくイメージがある。神からいただいた尊い命のつながりがそこでひろがっていく。そのことはマルコ10:13-16にも表れている。イエスが子どもに按手をしていく。弟子達は子どもを連れてきた人々を叱ったが、イエスはむしろ子どもの側に立った。さらにそんな小さくされた人々と共に生きるために十字架にかかり、その人々と交替をした。いわば「身代わり」となった。聖書全体として考えたときに手を置く側と手を置かれる側は、どちらが上で、どちらが下ということが、時として逆転していく。それらを貫いていることは、そこで命が繋がっているということである。神殿で犠牲をささげる人と、その犠牲の牛は同じ神につくられたひとつの命としてつながる。そしてイエスは、子ども達や目の見えない人のいのちを支えるために、自らの命を人々の命へつなげ、自らの命を十字架へつなげていく。そこにこそ按手の貴重となるイメージがある。手を置かれる者はもちろん、置く側にも覚悟がいる。按手は本来、そういう命のつながりを、あるいは一緒に真剣に生きていくのだということを、表現する象徴的な行為なのではないだろうか。(先週は、第2礼拝の宣教と午後の按手式研修会を濱野道雄先生がしてくださいました。礼拝説教の要約を犬塚契が書かせていただきました。)


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