巻頭言 2009年4月 |
「僕(しもべ)の道」
牧師 犬塚 契
また、使徒たちの間に、自分たちのうちでだれがいちばん偉いだろ うか、という議論も起こった。…しかし、あなたがたはそれではい けない。あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のよ うになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい。食事の席 に着く人と給仕する者とは、どちらが偉いか。食事の席に着く人で はないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、いわば給仕する者 である。 ルカによる福音書 22章24〜節 |
ルカが調べたところによると、最後の晩餐を前にしての議題は、実
に情けないものだった。まもなく地上での生涯を、十字架刑という
最悪の結末で終えようとするイエス・キリストを前にして、「だれ
がいちばん偉いだろうか」だった。キリスト逮捕まで、すでに秒読
みである。イエスキリストは、自分の残りの時間を計算し、そんな
様子を暗澹たる思いで、ながめていただろうか。しかし、語り出し
はやさしかった。「世の中は権力の奪い合いだ。しかし、あなたが
たはそれではいけない」。人が変えられていくとは、時間と忍耐と
赦しが、どこまでも必要なのだと切に思う。▲弟子達が、最後の晩
につまづいた課題に、2000年後の私もやっぱりつまづく。自分でイ
メージする「強さ」とか「カッコよさ」とか「憧れ」とは遠い。だ
から、自分から進んでその道を選び取ることはほとんどない。それ
でも幸いなのは、時に強いられてでも「しもべ」の道を歩ませられ
る時、既に歩まれたイエスキリストの足跡が見えることだと思う。
時に、弱くさせられて、「主よ、この道でしたか」とようやくキリ
ストの言葉に到着する。そして、それは罰でなく、恵みなのだと。
主は甦られた
牧師 犬塚 修
この御使は女たちにむかって言った、「恐れることはない。あなた がたが十字架におかかりになったイエスを捜していることは、わた しにわかっているが、もうここにはおられない。かねて言われたと おりに、よみがえられたのである。さあ、イエスが納められていた 場所をごらんなさい。 マタイ28:5〜6 |
女たちは愛するイエス様の死を受け入れることができませんでした
。どうしても諦めきれず、悲嘆に暮れて墓にでかけました。彼女た
ちが主の復活を信じていたわけではありません。ところが、行って
見ると、主のなきがらはそこになく、空虚な墓となっていたのです
。それは、信じられない現実でした。御使は語ります。「もうここにはおられない。よみがえられた!」
イエス様は墓の中に葬られました。もし今、私達の心が悲しみ、怒
り、失望、落胆、無気力等という墓の状態にあるならば、このイエ
ス様の到来は深い希望であり、慰めです。だが、長い間、心が暗い
状態にある事は、良い結果をもたらしません。悲しみという心の墓
から出る事です。燦々と輝く朝日と共に、立ち上がるのです。イエ
ス様は甦られたのです。否定的な心を主にゆだね、苦い感情に別れ
を告げ、新しい道に踏み出しましょう。復活は新時代の夜明けのよ
うです。主はいかなる将来を与えられるでしょうか。イザヤ53章の
「苦難の僕」の章のすぐあとには、すばらしい復活の業が鮮やかに
記されているのですから。「わずかの間、わたしはあなたを捨てた
が、深い憐れみをもってわたしはあなたを引き寄せる。ひととき、
激しく怒って顔をあなたから隠したが、とこしえの慈しみをもって
あなたを憐れむと、あなたを贖う主は言われる」
(イザヤ書54:7〜8)。
「ろばに乗って」
牧師 犬塚 契
二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分 の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 マルコ11:7 |
より見栄えがするもの、より楽しいもの、より刺激的なもの、より
心地よいもの、より目立つもの、より強く主張するもの、強烈に訴
えるものが、人々の心を捉える。人々はちょっとや、そっとじゃ、
驚かないし、喜びも、安心もしない。▲「福音」はどうなのだろう
?イザヤ書53章には、イザヤの時代から数えて、700年後に来たイ
エスキリストについてこう預言されている。「この人は主の前に育
った。見るべき面影はなく/輝かしい風格も、好ましい容姿もない
。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ/多くの痛みを負い、病を知っ
ている。彼はわたしたちに顔を隠し/わたしたちは彼を軽蔑し、無
視していた」。なんと現代の日本と逆行した姿だろうか、現代が力
強さ、華やかさ、美しさを徹底的に求めるのとはまったく両極に、
新しい王、全人類の救い主はそのかけらも見当たらない。救い主は
、人々が軽蔑することも、無視することも、殺すこともできる存在
として来るという。そして、その通りにイエスキリストは、見栄え
のしない馬小屋で生まれる。一人の当たり前の人間として生きたか
ら、世に出る前の30年間はほとんど知られていない。世が求める救
い主の姿とは逆に、弱さのただ中に来られたことを思う。馬ではな
く、戦車ではなく、ロバにのって来られた主イエスの歩みが、私に
とってよい知らせなのだ。
「闇の中に座る」
牧師 犬塚 修
わたしの敵よ、わたしのことで喜ぶな。たとえ倒れても、わたしは 起き上がる。たとえ闇の中に座っていても、主こそわが光。 ミカ書7:8 |
一日は朝・昼・夜の三つの時間帯に分けられるように、信仰生活も
それと似ています。朝と昼は「さわやかさ・心地よさ・清々しさ・
明るさ・働き」のイメ-ジです。朝と昼は、私達の活力のみなぎる時
です。ところが、聖書は一日が明るい朝と昼からではなく、暗い夜
から始まると伝えます。「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べ
があり、朝があった。第一の日である」(創世記1:5)とあります。
夜は光がない世界であり、暗黒、不可解さをも示しています。
この闇の時間帯から、驚くべき神の創造の業が開始するとは、神の
御心は深遠です。夜は「平安・休息・静寂・沈黙・重苦しさ・悲し
み・沈痛」等の言葉を想起させます。そして、これらも又、私達の
人生に欠けてはならないものです。人生における夜も、軽快さより
も重厚が、安直さよりも忍耐さを教えてくれます。
暗い夜は必ず朝に向かいます。夜はキリストの光が降臨することで
、突然、朝に変貌を遂げるのです。長く続く苦闘の中で、夜の先に
朝焼けが、苦闘の中に神の平安が待っています。旧約の預言者は「
お前の主なる神はお前のただ中におられ、勇士であって勝利を与え
られる。主はお前のゆえに喜び楽しみ、愛によってお前を新たにし
…」(ゼファニヤ3:17) と記しました。また「およそ鍛錬というもの
は、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが
、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた
実を結ばせる」(ヘブライ書12:10〜11)とあります。