巻頭言
2008年4月


2008年4月6日

「人はなんのため生きるの?」

牧師 犬塚 契

こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人 の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり 捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではあり ませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 ヘブライ人への手紙12章

定期購読している週刊誌が届いた。「素朴の疑問」というコーナー が新しく始まっていた。その第1回目、「人はなんのために生きる の?」という質問に哲学者が答えていた。「残念ながら人間が生き る究極的な目的というものはありません。他生物と同様、人間も生 命のサイクルの中で生まれて死んでいくだけです。他の生物にない 目的が人間にだけあると考えてしまうのは人間中心主義的な発想に 過ぎません。とはいえ、人間は生きる目的は意義を求めずにはいら れないのも事実です。なぜでしょうか。それは、自分がいてもいな くてもいいような存在であることに人間は耐えられないからです。 」▲「わたしこそ神であることを知るようになる」というエゼキエ ル書に繰り返された言葉を思い出す。絶対者を無視し、見失った人 間が「私の人生、意味なんてない!」と勝手に主張することこそ人 間中心主義的な発想と思う。毎日ニュースで聞く殺人事件。ある日 は少年、米兵、青年…。しかし、人が生きることに意味がないのな ら、殺してはいけない理由が見出せないのではないだろうか。聖書 は人間が偶然の産物で、本当はいてもいなくても全くかまわない存 在だとは語らない。代価を払って買い戻す価値があると教え、実際 十字架上で代価が払われた。「人生を導く5つの目的」を学ぶ40日 が始まる。あたたかな季節、創造の業。よいスタートになればと願 う。



2008年4月13日

夕から朝へ

牧師 犬塚 修

光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一 の日である。 創世記1:5

旧約の一日は夕べから始まります。それは暗い闇が増す時間帯であ り、私たちにとって心配や恐れを呼び起す時であります。人生にお ける失望や落胆、失意と諦めなどの思いはこの夜の時間に表現され ます。こんな夜がなかったならば、どんなに良いかと思うものです 。イスラエルの歴史は夜の部分が多かった感がします。絶えず、強 大な巨大国家間の紛争に巻き込まれ、翻弄された国がこの国の歴史 でした。その喧騒のただ中で、イエス様は産声をあげられました。 それは、暗い夜の時代でした。 どうしようもない悲しみ、がんばってきたことがすべて徒労に帰す 寂しい出来事、誤解と偏見、無理解と憎悪、冷酷さという否定的な 感情が吹き出る時、私たちは夜の暗さに重い吐息をつくのです。 しかし、この夜は輝かしい朝に向かいます。「朝があった」とあり ます。朝焼けに向かう夜を思うと、心は明るく生きる勇気が与えら れます。イエス様が復活されたのも朝でした。「週の初めの日の明 け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った 。すると、…」(マタイ28:1〜2)復活の奇跡が起こりました。イ エス様を信じて生きる人生はまさにこの通りです。どんな闇夜も、 朝の光で明るくされます。義の朝は間近であり、労苦が報われる栄 光の瞬間が訪れるのです。その朝が約束されている限り、私たちは 歓喜の歌声を響かせることができるのです。



2008年4月20日

「衝突、味方、支え、神の業」

牧師 犬塚 契

数日の後、パウロはバルナバに言った。「さあ、前に主の言葉を宣 べ伝えたすべての町へもう一度行って兄弟たちを訪問し、どのよう にしているかを見て来ようではないか。」バルナバは、マルコと呼 ばれるヨハネも連れて行きたいと思った。しかしパウロは、前にパ ンフィリア州で自分たちから離れ、宣教に一緒に行かなかったよう な者は、連れて行くべきでないと考えた。そこで、意見が激しく衝 突し、彼らはついに別行動をとるようになって…使徒15:36〜
ルカだけがわたしのところにいます。マルコを連れて来てください 。彼はわたしの務めをよく助けてくれるからです。    Uテモテ 4:11

バルナバとパウロの伝道旅行。一枚岩に亀裂が入る。「意見が激し く衝突し…」。若かったマルコが途中で戦線離脱した理由は書かれ ていない。困難と迫害に恐れをなしたのか。とにかくパウロには頼 りない人物に映った。もう連れて行きたくなかった。しかし、あく までもバルナバはマルコをあきらめるのを拒んだ。そして、「彼ら はついに別行動を」とるようになる。この後、バルナバの名は使徒 言行録から消えて、パウロの伝道旅行に焦点が当てられていくよう になる。▲「慰めの子」がバルナバのあだ名で、恐らくは性格も名 に遠くなかったと勝手に想像する。バルナバとパウロ…どちらが正 しかったのかは難問である。バルナバは信頼するパウロを失い、パ ウロは尊敬するバルナバを失った。この二人の優しさと鋭さの違っ た生き様がマルコを育てた。やがて、パウロのマルコの評価は逆転 する(Uテモテ)。時を経てマルコはペテロに同伴するようになり 、ペテロと対立しているように思われていたパウロにとって、マル コの存在はかけがいのないものになったと思う。ホッとしたり、ハ ラハラしたりの人間模様。そこにも神の業があるように思う



2008年4月27日

使徒たちの喜び

牧師 犬塚 修

それで使徒たちは、イエスの名のために辱めを受けるほどの者にさ れたことを喜び、最高法院から出て行き…、使徒言行録5:41

ある時、心ない言葉を浴びせられて、生きる自信を失い、絶望的に なることはないでしょうか。またイエス様のために試練を受け、は ずかしめられる不快な事はないでしょうか。その時は、聖書のみ言 をすぐに思い起こす事が肝要です。人はだれもが自分のプライドが 傷つけられると怒りたくなります。しかし、私たちと同じく、否そ れ以上の数多くの苦悩を体験されたイエス様を思い出すと、私たち の深い傷も主が担っておられる事が分かるのです。そして段々とい やされ、痛みと傷を通して、イエス様の十字架の苦しみのかけらを 理解できるようになります。人間的に考えると、最悪の恥、愚挙、 暴言であっても、それによって、神の深い愛を知るチャンスとなり ます。それは隠されている恵みの世界であり、霊的な訓練期間です 。キリスト者はこの世とは考え方と異なります。この世では、人か ら賞賛され、尊敬され、自己満足できること、成功、名声、名誉な どが幸福の基準と思いがちです。しかし、主に従う者には、主の御 名のために人から侮られ、軽んじられる事さえも感謝となります。 宮沢賢治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ…ヒドリノトキハ ナミ ダヲナガシ サムサノナツハ オロオロアルキ ミンナニ デクノボ ート ヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ  サウイフモノニ  ワタシハ ナリタイ」の詩は、岩手の花巻で生活していたキリス ト者・斉藤宗次郎というイエス様に似た人物への共感と感動から生 まれたと伝えられています。人に魂を打つのは、イエス様のために 生き、死ぬ覚悟をもつ従順な人の生き方なのです。





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