巻頭言
2007年4月


2007年4月1日

「受難日礼拝」を迎えて

牧師 犬塚 修

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かってい るのです。栄光が神に永遠にありますように。ロマ11:36

人生におけるどんな出来事も、キリストにあっては有益になります。 自分にとって最悪、最低と嘆息せざるを得ないこともさえも、神は 己の死によってそれらをプラスと変えて下さいます。今から約2000 年前、十字架上で「イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべて が終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた」(ヨハネ11:30 口 語訳)とあります。「すべて」が終わったという意味は、自分の罪 が滅びたこと、その結果「私は〜しなければならない」という義務 感、強迫観念も不要になったということです。主の贖罪の出来事を 真摯に受け入れるならば、魂に真の平安が生まれ、焦りや悲嘆等は 消え去り、すべてを感謝できるように変えられていくのです。 「すべてを 神の顕現と みたい  そう みえる日はいつ 来るか すべてとは  真に すべて!  嘲笑する者の顔が 裏切る者の顔が  行きずりの人  皆が 己に無関心な人人が   真珠を与えた その報酬に 石くれを  投げかえした 顔  が それ等が  すべて  耀耀と  恍惚と  聖に燃え かがやいて  みえる日は  いつくるか!? ……精神の奥底から開かれた目、へだてなく事物の根源につき入る 澄んだ目は、常人のいまだ見ないものをみることができる。」(「 八木重吉」著者:関茂 新教出版社155〜157p)「澄んだ目」とは 、主イエスを己れの救い主として仰ぐ信仰の目であります。



2007年4月8日

「救い主の足についた泥ゆえ」

牧師 犬塚 契

事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けてい る人たちを助けることがおできになるのです。ヘブライ2:18

一気に咲いた桜に新緑が混じるようになった。風が吹く度にハラハ ラと花びらが落ちる。やがて一枚も残らなくなり、道路はピンクの 絨毯から茶褐色に変わる。片付けが毎年大変だと思う。それを知り ながら、街路樹に桜を選んだ人は偉いと思う。この時期だけできる 夢のような桜のトンネルを最初にイメージし、苗木を植えた心に、 コーラで乾杯!▲イースターを「桜の日」と名称を変えようという 大学の先生がいた。ゴツゴツした黒い幹が、眠りを覚ますかのよう にこの時期に一気に花開くからだ。復活もそのようなものなのかも しれないと思えてくる。一斉に主の弟子達が復活をする時がある。 ▲思い描いた姿や歩みと違う。期待通りに身体は動かないし、人も 変わらない。そしてもたげてくる自らの弱さといたらなさ。気付く 罪の性質。教会の礼拝と交わりの中で、ハッとさせられ方向が時に 修正させられたりもする。…で、立っては転び、立っては転ぶ。そ れでも励ましは、足に泥をつけて、この世を歩まれたイエスゆえで ある。投げ出してしまいたくなる現実の前に、すでに投げ出してし まった現実を覆うように、イエスが励ましを与える。どこまでも励 ましを与えてくださる。批難ではなく、どこまでも励まし。▲やが て、イエスが復活されたように、桜が一斉に咲くように巡礼の旅が 終わり神の国は完成する。今日は前祝?



2007年4月15日

「キリストを通して」

牧師 犬塚 修

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体か ら、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエ ス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自 身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えてい るのです。 ロマ7:24〜25

パウロは自分の罪に苦しみました。彼はマジメな人で、決して現実 から逃げない誠実さを持っていました。しかし、長所は短所にもな るものです。彼は自分の失敗や罪をいいかげんにできず、強く責め 続ける一面がありました。「なぜ自分はできないのだろう…」と悩 んだのです。ついには自己嫌悪になり、生きる気力を奪われ、自暴 自棄になったようです。しかし、彼の心に新しい思いが与えられま した。それは自分の罪を見ず、ただキリストの十字架を仰ぐことで した。その時、あふれる神の平安が彼を包んだのです。私たちも自 己嫌悪という鎖から解き放たれる事が肝要です。どうしようもない 自分の弱さや罪を感じた時も「この問題について今、考える事はや めよう。今はただ主の十字架を仰ぎ、その完全な赦しに感謝しよう 」と自分に言い聞かせる事です。これは自己逃避ではなく、信仰的 決断です。もしこの決断がないならば、私たちは一生の間、責めと 憂鬱という不快な感情に支配されてしまいます。重い問題は一朝一 夕で解決せず、長い月日を要するのですから、少しずつ癒されてい けば良いのです。今は、主の恵みと赦しの恵みに感謝し、晴れ晴れ と生きることです。過去の苦い思いのすべてを捨て去り、今生まれ たばかりのみどりこのようにフレッシュな気分で生きたいものです。



2007年4月22日

「説明できない神秘」

牧師 犬塚 契

「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しか し、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください。」する と、天使が天から現れて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだ え、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。               ルカによる福音書22章38節

「かわいそうな人なんだ」という哀れみの視点が先に頭に焼き付い てしまった。悲惨な事件、理不尽な出来事を見聞き、体験する度に そのフレーズが頭を巡った。「教会」「牧師の子」という特殊な環 境で育ったので、人に対する怒りや妬み、恨みなどの普通な感情を 2段ばかり強引に飛び越して、幼い時期を過ごしたように思う。小 学校の「いじめっこ」も可哀想な人、「わがままな乱暴者」も可哀 想な人…身の丈を超えて、無理に飲み込んだ分、後から弊害も出た ように思う。それでも後にイエスをよく知る一助になったことは感 謝。▲「父よ、この杯をありがとうございます。喜んで受けます。 この十字架は何という特権でしょう」とイエスは祈られなかった。 「この杯をわたしから取りのけてください」と祈られた。恐怖と不 安、痛みと孤独の中にいた。救い主の汗には血がにじんだ。そのま まを神に祈った。▲テクニック的な人生指南が溢れ、透視や占い、 風水、手相などが代わりに人生を生きてくれる。複雑さを増す人の 営みに弾き飛ばされる人も多くなった。残念なことにみえて恐らく 幸いにも、聖書はQ&Aで答えない。即効性の薬にならないことも 多い。それでも、救い主が共に苦しまれたという事実と私たちをよ くご存知だという真実を確認できる時にいただく平安がある。説明 は難しい「神秘」ある。どこまでも、わたしたちはひとりでない。



2007年4月29日

「み言葉に従う」

牧師 犬塚 修

「でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、 触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいま した。」蛇は女に言った。「決して死ぬことはない。」 創世記3:3〜4

エデンの園において、二人は罪を犯しました。その罪とは神の言葉 に対して不従順になった事でした。神は「園のすべての木から取っ て食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはな らない。食べると必ず死んでしまう」(2:16〜17)と命じられまし たが、エヴァは「触れてもいけない。」と付け加えています。まる で神が厳しい方であるかのような言い方です。その木に触れる事は 禁じられてはいませんでした。このように、神は自由さを人間に豊 かに与えられました。私たちが自戒すべき事が記されてます。 まず、ここに悪魔に対する宣戦布告がありません。自分を罪に誘惑 する存在に対して余りにも無防備でした。蛇(悪魔)は甘い言葉で 巧妙な誘惑してきます。エヴァは対話せず、無視すれば良かったの です。ところが、何と言う事でしょうか。彼女は蛇と話し合う大失 敗を犯します。私たちを誘う声に耳を傾けてはなりません。 もし私たちが悪魔的存在に心を許すと、相手は暴君に変質します。 蛇は「決して死ぬことはない」とまるで神のように高飛車な言い方 をしてきています。相手が私たちの心を操縦し、支配し、奴隷化し ようとするのです。現在の日本は右傾化してきて危険です。正しい 批判力を持って、神の言葉に従うことが大切です。





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