巻頭言
2006年4月


2006年4月2日

2006年度を迎えて

牧師 犬塚 修

「力を捨てよ、知れ。わたしは神。国々にあがめられ、この地であが められる。」                 詩篇46−11

新しい年度を迎え、身が引き締まる感がいたします。2006年度の 年間聖句は上記のみ言であり、また年間標語は「主の成し遂げられる ことを仰ぎ見よう」(詩篇46-9)です。思いを新たにして歩もうと決 断している私たちが自戒すべきことは、人間的な力により頼む悪しき 傾向です。「力を捨てよ」とは私たちの高慢さや利己愛に対する鉄槌 のごとしです。私たちは物事が自分の希望通りにいかなくなると、何 としても、事態を変えようと努力します。しかし、私たちが知るべき ことは、現実を変革されるのは、主なる神であるという真理です。も し、私たちが自分の力により頼むならば、必ず挫折してしまうのです 。「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するか らです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のし たいと思うことができないのです。しかし、霊に導かれているなら、 あなたがたは、律法の下にはいません」(ガラテヤ5:16〜17)とありま す。「主の成し遂げてくださる」と確信しましょう。それは消極的な 生き方ではなく、むしろ、非常に積極的な決断です。なぜならば、人 間的な力は主のすばらしいみ業を阻止してしまうことがあるからです 。神を心から礼拝して生きましょう。



2006年4月9日

「受難週を迎えて」

牧師 犬塚 契

【受難週】

イエス・キリストがロバに乗ってエルサレム入城をしたのが、日曜日 。民衆はシュロの葉と着物を敷いて迎えた。この日から復活日の前日 の土曜日までの1週間が受難週で、この週は、特にイエス・キリストの 受難を思う。●日曜日(マタイ 21:1-11)「大勢の群衆が自分の服 を道に敷き、また、ほかの人々は木の枝を切って道に敷いた。」 ●月曜日(マタイ21:12-17)「…イエスは神殿の境内に入り、そこで 売り買いをしていた人々を皆追い出し…」●火曜日(マタイ22:34-40 )「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であ る主を愛しなさい。』●水曜日(マタイ25:31-40) 「『この最も小 さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなの である。』●木曜日(マタイ26:26-30)「取って食べなさい。これは わたしの体である。」●金曜日(マタイ27:32-44)「三時ごろ、イエ スは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という 意味である。●土曜日(マタイ27:62-66)「そこで、彼らは行って墓 の石に封印をし、番兵をおいた。」●日曜日(マタイ28:1-10)天使 は婦人たちに言った。「十字架につけられたイエスを捜しているのだ ろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり 、復活なさったのだ。」



2006年4月16日

「イースタ−礼拝を迎えて」

牧師 犬塚 修

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろ うが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、 復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。 マタイ28:5〜6

聖書の根本的真理はどこにあるでしょうか。この66巻にも及び、約1 000年という気が遠くなるほどの長い年月をかけて、記された神の言で ある聖書は、一体、私たちに何を伝えようとしているでしょうか。そ れは神の愛と勝利に関してです。前者は十字架、後者は復活の出来事 で明白です。現代人は歴史の中にあって未曾有の危機に瀕しています 。最近、頻繁に起こる豪雪、豪雨など、目に見える形での不穏な災害 が数多く起こっています。これらの原因は地球の温暖化にあるのでは ないかと言われていますが、もしそうであるならば、人間自身の欲望 がもたらした人災であり、各国がエゴを捨てない限り、地球はさらに 病んでいくでしょう。さらに深刻な根本的な問題は精神的な荒廃ぶり です。聖書は御子イエスの十字架と復活を高らかに告知します。イエ ス様は十字架にかかって死に、三日目に墓から復活されました。復活 とはこの世のあらゆる不幸と災い、罪に対する究極的に勝利の神の宣 言です。主を信じる時、私たちには新しい復活の人生が開始します。 絶望と悲嘆、怒りと不安を克服するのです。弟子たちは主イエスの死 によって、パニックとなり、絶望(墓)に沈み込みました。墓が彼ら の悲哀と自己憐憫の場所になろうとしていました。しかし、イエスは もはや絶望という墓の中にはとどまられず、復活の命によって歩み出 されました。この復活の主と出会い、新しい人生を踏み出しましょう。



2006年4月23日

「教会には行きませんでした」

牧師 犬塚 契

主に造られたものはすべて、主をたたえよ 主の統治されるところの、 どこにあっても。わたしの魂よ、主をたたえよ。 詩篇103編

4月から始まった世の光の原稿のために、少しの時間本を読むことに使 うことになった。今月のテーマは「礼拝」だったので、その関係の本 を何冊か、とりあえずツンドク。締め切りが過ぎたので、とうとう読 んだ。そして、ある本の一文に目が留まった。「その日、私は教会へ は行きませんでした。教会ではなく、「礼拝」に行ったのです」。そ の前の文章はもっと衝撃だった。「礼拝は、私たちがその週を何とか やりぬくための燃料補給ではありません。出席者全員が満足を感じる ような、会衆によって築き上げられた伝統行事でもありません。また 気を楽にしてリラックスし、日常の雑事からしばし身を引き、心の洗 濯をする場所でもありません。礼拝は私たちが楽しむ【クリスチャン アワー】ではないのです。親切でよい人、信仰深いクリスチャン、し っかりした親になるためのものでもありません。礼拝は、私たちの意 識や時間や愛がほかのものに向けられることをねたまれる神に、私た ちの心をささげる行為なのです。」線が引いてあったので、前に読ん だときも衝撃だったのだろう。忘れてしまっていた。▲何において、 成功したいのか?と問われるとき、礼拝者としてと答える者でありた い。ライフワークを思い出した先週。



2006年4月30日

詩篇を学び終えて

牧師 犬塚 修

わたしの支え、わたしの砦、砦の塔、わたしの逃れ場、わたしの盾、避けどころ、諸 国の民をわたしに服従させてくださる方を。 詩篇114:2

主は私たちのために最善をはかり、また深く私たちを愛し、守り、苦 難から助け出して下さいます。その絶大な力は私たちの思いをはるか に越えています。ゆえに、神の与えられる平安と喜びの中に生きてい きましょう。もしかして、私たちは主への信仰をおろそかにして、自 分の業や力、才能に頼って生きてしまうかもしれません。また、自分 勝手に生きてしまった結果、苦い実を刈り取った時「主よ、どうして 助けてくれなかったのですか!」逆ギレ(?)してつぶやいてしまう かもしれません。そのような時に私たちに求められるものは心からの 悔い改めです。また、自分はこれまでなすべきことを何もしてこなか った…という悔恨で、胸がふさぎこみ、逆に必死で自分の体を無理し てまで打ちたたいて己の罪責感を解消しようとします。これは自分の 良い立派な行いによって、神に義とされたいという律法主義です。私 たちが善行によっては義とされません。主の恵みは私たちの行いでは なく、命そのもの、また存在自体に向けられています。たとえ、私た ちが必死で努力しても、不完全さのゆえに、十分な働きができなくて も、主は「あなたはよくがんばったね」とその隠れた努力を評価して くださいます。主は私たちの表面ではなく、信仰の内面的な心を見ら れます。主が私たちに求められるものはこの信仰なのです。





TOP