巻頭言 2005年4月 |
新しい年度を迎えて
牧師 犬塚 修
イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通 らなければ、だれも父のもとに行くことができない。 ヨハネ14:6 |
「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」(高村光太郎)新年度を迎え、
私たちは新たな道を踏みしめようとしています。その道はイエスキリストです
。主が私たちの同行者となって下さいます。これ以上に平安かつ、嬉しい事は
ありません。道にはいろいろあります。一つは「たこ壺」のような道です。こ
れはすべてから逃避する生き方です。また、苦々しい出来事に心痛みつつ、自
分自身を隠したまま生きる事です。これはどうしても後ろ向きの生き方となり
ます。自己憐憫、自己嫌悪に陥る時もあります。しかし、簡単にそれ自体を悪
い事と断言してはなりません。試練の時は、何一つ着飾る事なく、静かにして
いる事も大切な時なのです。それは新しい命が生まれ出るための準備の時、恵
みの時です。第二はその状態から、新たに出発し、前に向かって踏み出す道で
す。これは「ヤドカリ」の行動に似ています。私たちは復活信仰に立って、誰
も行った事がない未開拓の原野に向かいたいものです。「キリストと結ばれる
人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいも
のが生じた」(第二コリント5:17) また「わたしたちは皆、顔の覆いを除か
れて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿
に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです」(同3:18
)とパウロは力強く書いています。ヤドカリは古い殻から抜け出し、新しい殻
へと移動します。人生には様々な試練や苦労というヤドがあります。これらの
ヤドを私たちは悲しみとしてではなく、祝福をもたらすものとして受け入れ、
そこにに宿る事です。現実を感謝の心で受け入れると、主は次に更にすばらし
い大きなヤドを用意して下さいます。そして豊かな成長をとげるのです。2005
年度は「奉仕」が年間のテ−マです。奉仕と感謝の心に満ち、主の忠実な僕と
して生きましょう。
「奉仕と祝福」月間の中で
牧師 犬塚 修
「あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自 身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すように と、わたしはいつも身をもって示してきました。」 使徒言行録10:35 |
「かわいい男の赤ちゃんが生まれた時、母親は『神様、この子がだれからも愛
される人間にして下さい。』と祈ったそうです。そして彼は、多くの人々にこ
よなく愛されました。それは羨ましい人生でした。彼ほど幸福な人はいなかっ
たでしょう。ところが、青年にあった時、彼は突然自らの命を絶ったのです。
なぜ、こんな悲しい出来事が起こったのでしょうか。それは、彼は人からどん
なに熱く愛されても、彼自身が人を愛せない苦しみにあったというのです。彼
は亡くなる時、『どうして僕のために愛する人になるようにと祈ってくれなか
ったのか!』と叫んだと言います。」これは、先々週の朝の祈り会において、
一人の方の証しの要約です。この母親が祈った神様は、聖書に啓示されている
神様とは異なる気がします。というのは天の父は、祈らなかった事を責めたり
、愛する者に罰や呪いを与える恐ろしいお方ではないからです。しかし、その
事を差し引いても、この話には人生における真理があります。それは愛される
ことよりも、愛する事のすばらしさです。多くの人から愛される事は何とすば
らしい恵みでしょうか。しかし、真の幸せは、別の所にある事を教えています
。私たち人間は人を愛して、生きる喜びを得るように神に創造されているので
す。人を愛する事は犠牲や労苦を伴うものかもしれません。しかし、主と人に
仕えながら、愛して生きる事が、泉のように湧いてくる歓喜の人生をもたらす
と信じます。「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神
、主を愛しなさい。」(申命記6:5) 私たちの命を健やかにする根源的な力は
ここにあります。愛による「奉仕」は人間的な力によって、必死で苦しみつつ
する事ではなく、主の愛の力に押し出されて、喜んで捧げる神への真実な応答
なのです。
主と話し合って生きる
牧師 犬塚 修
ただ、強く、大いに雄々しくあって、わたしの僕モーセが命じた律法をすべて 忠実に守り、右にも左にもそれてはならない。そうすれば、あなたはどこに行 っても成功する。 ヨシュア記1:7 |
いろいろな問題が起こる事によるストレスで苦しみ、体調を壊す時があります
が、解決の道はあると信じる事です。ヨシュアは未知の地に出発するに際し、
多くの敵が待ち構えている事を知っていました。それゆえ、彼の心は不安と恐
れに満たされていた事でしょう。主はパニックになりそうなヨシュアに「ただ
、強く、大いに雄々しくあれ」と呼びかけられました。ここでいう「強さ」と
は、我(が)の強さではありません。我(が)は恨みや絶望感をふくんでいます
。また自分の意志の力だけでガンバロウとする生き方は、途方もない疲れと虚
脱感を生みます。真の強さは、我を張る事から解放される事から生まれます。
私たちの本当の問題は、自分が神に愛されている事を忘れ去っている「神健忘
症」にあるのです。神は自分の命を投げ出すほどに、私たちを深く愛されてい
ます。そして、何とかして問題解決の道へ導こうとされます。その事を信じ、
自分がかかえ込んでいる難問題を、主と話し合って生きる事がベストの解決方
法なのです。では、どうやって主とお話しができるのでしょうか。それは、聖
書の学びや教会の交わり等を通してです。神はそこで進むべき道を示されます
。そして、ふしぎにも救いの門を開かれていきます。神の言葉を受け入れたヨ
シュアは、あまり深刻には悩まない人に変えられました。彼はそれまで我力で
何とかしなければならないと思い込んでいましたが、その必要はないと信じ、
主にあらゆる問題も主に任せてしまおうと決断したのです。その結果、彼の顔
に明るい笑いが戻ってきました。その後のヨシュアの人生は豊かなものとなっ
たのです。我力と不信の心を思い切って捨て、主を信じて頼るなら、何が起こ
っても、堂々として何事も恐れず、ド−ンと大きく構えて生きられるようにな
ります。
僕として生きる
牧師 犬塚 修
僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このこと が分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。 ヨハネ13:16〜17 |
ここに出てくる「僕」とは私たちの事であり、主人はイエス様です。イエス様
は私たちを福音の使者として遣わされます。それは何にもかえがたいすばらし
い栄誉、また生きがいです。しかし、いつしかこの健全な関係が逆転する危険
性が生じる時があります。それは自分が主イエス様の立場に立って、物事を処
理しようとするのです。たとえば、自らは少しも動こうとしないで、無意識の
うちに、イエス様や人を、自分の意のままに動かそうと企てるのです。私たち
が主の座を奪い取るならば、主を引き下げることを意味します。そして、人生
から祝福が失われていきます。パウロは神に対して熱心であると自負していま
した。そして、自分の使命としてクリスチャンを苦しめました。今、日中関係
の危機が叫ばれています。確かに中国の暴挙は厳しく批判されるべきです。し
かし、そこまで彼らを追いつめた小泉氏の靖国神社参拝や教科書問題、そして
、憲法改正に対する正しい批判は余り取り上げられていません。マスコミも現
象面ばかりを一面的に報ずることなく、根本的な問題を論じるべきなのに、そ
うしていないことが気になります。今、日本は危険な局面にさしかかっていま
す。アジア諸国のうめきや叫びに謙虚に耳を傾けねば、ますます、日本は孤立
化を深めていくでしょう。更にアジアにおいて、嫌われていくことを危惧しま
す。その意味で小泉氏の外交的努力のなさと冷淡さは悲しむべきことです。聖
書は鋭く義と不義、赦しと裁きを語ります。そして、人間は謙虚に人に聞くこ
とを教えています。また主の僕として神に仕える事を告げます。僕は主人の言
う事を行うことが使命です。もし僕が主人の願いを無視して、自分勝手にふる
まうならば、その裁きを避けがたいものとなるでしょう。国がまことの神から
離れ、人を神とする偶像国になるならば、鉄槌は必ず日本に打ち下ろされる事
でしょう。