巻頭言
2004年4月


2004年4月4日

2004年度を迎えて

牧師 犬塚 修

わたしはあなたたちの足の裏が踏む所をすべてあなたたちに与える。荒れ野か らレバノン山を越え、あの大河ユーフラテスまで、ヘト人の全地を含み、太陽 の沈む大海に至るまでが、あなたたちの領土となる。一生の間、あなたの行く 手に立ちはだかる者はないであろう。わたしはモーセと共にいたように、あな たと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない。 ヨシュア記1:3〜5 

新年度を迎えました今、思いを新たにして、主に祝福される道を歩んでいきま しょう。さて、年度始めの4月は「教育と礼拝への招き」が月間テ−マとなり ます。恵みに満ちた生活の秘訣は、礼拝を尊ぶ歩みにあると言っても過言では ありません。強い決意を抱いて、礼拝中心のライフ・スタイルを目指すならば 、幸いな日々が待っている事を確信します。その実践によって、ヨシュア記に あるように「足の裏で踏む所は、すべて与えられる」という力強い神の約束が 実現していく事でしょう。私たちは礼拝において、主の豊かな教育を受けてい くのです。聖書に基づく教育の目指すものの一つに、自己相対化があります。 逆に、自己絶対化は危険な考え方と思います。他者の意見に耳を傾けず我意を 貫くところに人間の罪性が隠されています。私たちも油断すると、この傾向に 陥ります。礼拝にて、私たちは神の言葉を聞く事によって、自己絶対化への誘 惑を砕く事ができます。私は、最近の日本の動きは自己絶対化に向かっている のではないかという危惧の念を抱いています。その実例が、国歌、国旗掲揚に 反対した教職員が厳罰に受けている事です。これは恐ろしい人権侵害です。事 の本質を覆い隠し、国民を洗脳状態に置こうとする人間の隷属化への道である 事を憂慮します。戦前、治安維持法によって、国民を恐怖状態においた過去の 亡霊がうごめいてきている気がしてなりません。主イエス様は悪の力を打ち砕 く為、また人間の罪や過ちの責めを一身に負って、死んで下さいました。その 恵みを感謝し、主への従順さと謙遜を求めて生きる事です。「悪は悪、善は善 、私は神以外の何ものも恐れないという信仰を持って歩みたいものです。



2004年4月11日

主の受難と復活

牧師 犬塚 修

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエス に油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、 日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転 がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、 石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。      マルコ16:1〜4

主イエス様の十字架の出来事は、想像を絶する苦しみでありました。人々の嘲 りを受け、侮辱され、兵士たちに殴られ、つばきをかけられました。主の頭に は茨の冠がかぶさられ、その暴虐の一つ一つは耐えがたい痛みと屈辱に満ちて いたのです。私たちの人生にも思いもかけないイエス様の苦しみの万分の一で あったとしても、災いが降りかかる時があります。その時、平常心を失わない ためには、神から来る絶大な平安(シャロ−ム)で心を満たす事が肝要です。そ うでないと、言い知れない恐怖と不安に襲われる事でしょう。「主御自身があ なたに先立って行き、主御自身があなたと共におられる。主はあなたを見放す ことも、見捨てられることもない。恐れてはならない。おののいてはならない 」(申命記31:8)とあります。主の苦しみを想起する事です。主は私たちの罪 のために、深く傷つき、苦悩され、その傷によって、私たちを癒されました。 (イザヤ書53章) 苦難の後に続くもの、それが復活です。イエス様に従って きた女性たちの願いも空しく、愛する主は十字架上で死なれました。その時の 絶望感と虚脱感は言い知れないものであったでしょう。しかし、彼女たちは心 がおじ惑う中でも、主が葬られている墓に行きました。そこには巨大な石が置 かれていました。まさに万事休すです。ところが、彼女たちは主の復活の知ら せを受けたのです。その石はすでに取り除かれていました。主は私たちの苦し みに終止符を打つために、主は死から復活され、永遠の命を与えて下さいまし た。私たちの人生の真の希望はこの復活にあります。



2004年4月18日

礼拝強調月間の中で

牧師 犬塚 修

ハレルヤ。聖所で神を賛美せよ。大空の砦で神を賛美せよ。力強い御業のゆえ に神を賛美せよ。大きな御力のゆえに神を賛美せよ。      詩篇150:1 〜2

「問1  人のおもな目的は何か。   答 人のおもな目的は、神の栄光を あらわすこと、永遠に神を喜ぶことである」(バプテスト教理問答書  聖書 図書刊行会1978年) 永遠に神を喜ぶことは、礼拝を捧げることで現されます。礼拝こそが人間とし てできる最も重要で、神の栄光をあらわす最高の業なのです。礼拝によって、 私たちの心に変革が与えられます。今まで、恐怖と絶望感にとらわれていた心 が、神の言葉を聞き、神を賛美することによって、ふしぎな平安と新しい希望 へと向かい始めます。もし、私たちが土の上だけを見つめていたならば、滅入 ってしまうでしょう。心をひるがえし、広大な大空を見上げるならば、そこに は、太陽が輝き、青空が広がり、白雲がたなびいています。私たちが教会(聖 所)で、大自然界で、まことの神を礼拝するならば、多くのしがらみや奴隷的 な意気消沈した状態から、自由にされていきます。また未来に対しても、恐れ を抱くこともなくなります。私たちが「もう絶望だ…」という奴隷的な強迫観 念にとらわれるならば、とても苦しいことです。心は荒廃していきます。そし て、私たちは隣人に対して、寛容さを持つことができず、その人の痛みに対し ても無関心となり、ついには冷酷にさえなるでしょう。いかに相手が苦しんで いても、平然とできるのは神を心に宿そうとしていないからではないでしょう か。愛、親切、慈しみは、神礼拝から生み出されます。私たちの心の中には隠 れた罪(神への反逆心と不信感)が潜んでおり、その罪が、私たちを痛めつけ苦 しめます。その罪という厚い壁は、礼拝の中で、少しづつ打ち砕かれていくの です。そこで、神と出会い、本来の自分を回復し、どんなに辛いことがあって も、ハレルヤ!と主を賛美しましょう。「すべては私の益になる」という摂理 信仰に立ちましょう。共に主を賛美するならば、私たちは祝福の門が、未来に 向かって大きく開かれていく恵みを経験していくと信じます。断じて否定的な 心に縛られないことです。



2004年4月25日

教育の大切さ

牧師 犬塚 修

主を畏れることは知恵の初め。無知な者は知恵をも諭しをも侮る。箴言1:7 むなしい言葉に惑わされてはなりません。これらの行いのゆえに、神の怒りは 不従順な者たちに下るのです。だから、彼らの仲間に引き入れられないように しなさい。エフェソ5:6〜7

イラク人質からやっと解放された3人の人たちに対するメディアと政治屋、週 刊誌類の人身攻撃は現代日本の危険な精神風土を現しています。本来ならば、 彼らの解放を喜び「ご苦労様でした」という一言のねぎらいの言葉があって、 しかるべきと思うのですが、逆に「自己責任」という奇妙な言葉で、3人と傷 ついた家族を追いつめていくというその異常さに唖然とします。もし、この言 葉を用いるならば、無理矢理、危険な地に自衛隊を派遣した小泉さんの強引な 決断がまず問われるべきでしょう。にもかかわらず、問題をすり替え、弱い者 イジメをして、国民の目を欺こうとする御用学者やマスコミの姑息さには愕然 とします。政府が自国民の命を守る事は当然の義務であり、そのための国のは ずです。ところが、「国に迷惑をかけるな」という言い方には、「お上にたて つく者は非国民だ」とした戦前の危険な日本に立ち返りつつある予感を覚え、 薄気味の悪さを感じます。それは、戦後、日本の教育がお上中心、官主導型で 、国民の人権や命を軽視した偏った教育であった事に基因している気がします 。本当は政治家は国民に仕える役割のはずなのに、いつしか平然と税金を乱費 し、失敗のつけを国民に押しつけている感があります。戦前では、天皇の臣民 としての従順な国民を作ろうとした教育観は、最後はアジア侵略という最悪の シナリオを生み、恐ろしい戦争への道を突き進みました。今、弱い人の命を尊 ぶ倫理観や痛みを共有する教育の大切さを思います。これこそが聖書の説く教 育観です。彼らは自分の命の危険も顧みず、苦しんでいる人々のために行動し たのであり、私たちは誇りにするべきです。それは命がけの勇気ある行動であ ったと思います。何もしない者たちが声高に、「自己責任」を口にしています。


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