巻頭言
2003年4月


2003年4月6日

新年度を迎えて

牧師 犬塚 修

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、あな たがたの髪の毛の一本も決してなくならない。忍耐によって、あなたがたは命を かち取りなさい。  ルカによる福音書21:17〜19

ついに2004年度が始まりました。今年は「伝道」を年間方針として歩んで まいりましょう。ここで、イエス様は伝道の志に燃える弟子達に対し、3つの ことを忠告されました。

(1)人から憎まれることを覚悟しなさい……-私たちは人から憎まれる事を好 まず、できる限り、誰とでも仲良く生きて生きたいと願っています。しかし、時 には人から憎まれること、また失望を与えてしまうことも覚悟して生きる生き方 こそが自分自身を自由にし、本当に気楽にしてくれるのです。理想的な自分を演 じ続ける事は辛いことです。むしろ、裸のままで、気楽に生きることです。その 結果、たとえ、憎まれる事になってもそれで良しと心を定めてしまう事です。そ れは、無論、傲慢で良いにという意味ではなくて、自分勝手に建て「理想像にな るべきだ」という頑固な思い込みに死ぬという意味です。

(2)髪の毛一本もなくならない……生活に疲れ、自分から大切なものが、どん どん奪われていく喪失感に屈してはなりません。神の守りは絶大なものです。失 ったと落ち込んでも、実は何もなくしていないことが多いのです。「髪の毛一本も」 というのは、神の絶対的守りを表しています。その約束を堅く信じ、核心と喜 びの中で伝道していく事です。 

(3)忍耐によって命を勝ち取る--------愛する人の魂を救いに導くためには、忍 耐と祈りが必要です。現代は、すぐにも結論がほしくて、中々ゆったりとは待て ない時代という気がします。しかし、熟成したぶどう酒がおいしいように、忍耐 によって、魂は確実に主のもとに引き上げられていきます。共に祈りあう事で私 たちは主の栄光を見るでしょう。



2003年4月13日

「伝道と信仰」月間の中で受難週を迎えて…

牧師 犬塚 修

わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った。 イザヤ書53:11                   

今日から受難週に入ります。受難という言葉は普通に考えますと、いやな響きを持っ たものです。しかし、主を信じる者にとっては、喜びに至るダイヤモンドの言葉に感 じられるのです。なぜなら、受難は主が引き受けられたと知っているからです。もし、 受難をこの私だけが味わう辛いものと理解すると、心は非常に重苦しくなります。そ うではなく、主が私たちが受けるべき苦難を共に体験し、戦い、それを勝利に導かれ るのです。主が味わわれた十字架は苛酷極まりないものでした。それは、私たちの罪 を赦すために、自ら選び取られた極刑でした。私たちのために十字架につけられた愛 の主を信じる信仰に立つならば、不動の平安を獲得します。私たちは時々、辛い体験 で、悶々と悩む時があります。心を痛める出来事が次々に起こる事は辛いものです。 しかし、神は不安におびえる私たちのために驚くべき奇跡を起こされました。それ は、独り子のイエスを「受難の子」としてこの世に派遣し、私たちが負うべきすべ ての罪と罰を、彼の上に置くことでした。それによって、私たちを苦しみから解放 されたのです。たとえ、どんな大失敗を犯しても、主は傷ついた部分を覆いつくし、 守って下さいます。どんな厳しい事が起こっても、決して見捨てられません。ゆえに 私たちはもはや悩まないで良いのです。いつも十字架を見上げ、救いを信じ、私はす べてから自由なのだ。もう私はどんなものも恐れない。私は歓喜しつつ生きていくと 宣言できるのです。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なので す。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(第二コリント5:17)少し前の出来 事は古い過去に属します。私たちは常に新しくされていくのです。主の豊かな祝福を 信じ、信仰の道をゆっくりと歩いていく事です。



2003年4月20日

イースタ−礼拝を迎えて

牧師 犬塚 修

わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりま した。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、 わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体 になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。 ローマ6:4, 5                  

イースタ−おめでとうございます。主イエス様の復活によって、私たちは過去に経 験してきたあらゆる罪責や束縛から完全に自由にされました。ですから、「私は自 由になった、これから、私は主に完全に守られ、復活の人生を生きるのだ」と確信 することができます。「私は平安に満ちており、何も心配していない」というのが 私たちの口癖でありたいものです。そして、復活の命を受けて、悪との戦いに臨む 勇者としての道に進む事です。私たちは危機的な時でも、一歩も後ろに退かず、巨 人ゴリアテと戦ったダビデを思い出します。「その死の姿にあやかる」」とはイエ ス様の徹底的な従順な姿を見習う事でもあります。私たちは何か大事なことをなし とげようと志す時、最初は勇んでいても、次第に決心が色あせたり、またはついつ い現実の厳しさに負けて、妥協したり、油断したりで、結局失敗してしまう事はな いでしょうか。私たちの最強の敵の一つは自分自身の油断や甘えなのかもしれませ ん。それらへの誘惑に打ち勝ち、命をかけて主に従うならば、復活によるすばらし い勝利がほほえむことでしょう。「キリストは、…自分を無にして、僕の身分にな り、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、 それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あ らゆる名にまさる名をお与えになりました」(フィリピ2:6〜8)キリストに対する 信仰による従順はすばらしい豊かな実をもたらすのです。



2003年4月27日

祈りによる勝利

牧師 犬塚 修

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、 たゆまず祈りなさい。 ロ-マの信徒への手紙 12:11〜12                

人生において圧倒的な勝利を得る秘訣はどこにあるのでしょうか。それは、た ゆまず祈り続けることにあります。いかに厳しい時でも、心を天の御父に注ぎ だすことです。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感 謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そう すれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト ・イエスによって守るでしょう」(フィリピ4:6〜7)私たちの心の快復は祈りは じめた時から始まります。もし、ざぶとん一枚の場所を確保して祈るならば、そ こに祈りの祭壇は築かれます。私たちの祈りの祭壇は赤々と燃えているでしょう か?実はここにi神の無尽蔵の祝福が隠されているのです。「あなたが祈るとき は、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの 父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてく ださる」(マタイ6:6)他人にはどうしても言えないことでも、天の父には何でも 打ち明けることができるのです。祈りを怠ると、この世の心配事が迫ってきて、 信仰心も輝きを失い「だめだ、祈っても無理だ、絶望だ」という否定的な言葉が 口からもれてしまうものです。祈りとは御父との親しい対話です。私たちが神の 変わらない愛を確信するためには、どうしても長い対話、すなわち祈りが不可欠 なのです。ではどのような祈りが望まれるのでしょうか。まず主を賛美し、感謝 をささげることです。すべてを感謝します!と告白しましょう。次に、愛する人 々、家族や友人の幸福を主に祈りましょう。また、自分自身のための熱心な求め と願いを訴えることです。祈ったならば、すべてを主にお任せきり、もはや悩む 必要はなくなります。主を信じて生きる私たちにとって恐ろしいものは何もあり ません。主がいつも一緒にいて、慰め、永遠の命にいたる平安を与えてくださる からです。


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