巻頭言
2002年4月


2002年4月 7日

 「礼拝と希望」月間迎えて

牧師 犬塚 修

神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活 によって、生き生きとした希望を与え… (第一ペトロ1 3)

高くそびえるヘルモン山に降り積もった大雪は、長年かかって土中深く浸透し、やがてはヨルダン川 の源流となり、フィリポ・カイザリヤの岩々の裂け目から噴き出ます。神の偉大な栄光のみ業が現さ れるためにも、長年の忍耐と苦しみの日々が必要な時もあるのです。そして、ついに復活の春が訪れ た時、一斉に死のような砂漠にも、色鮮やかな花々が咲き出します。全能の神は2002年度、いか なる豊かな祝福を私達に与えて下さるでしょうか。大いなる希望を抱き、共に祈り合い、主に求めて 歩みましょう。また、様々な苦難を恐れず、勇気を出して、魂の救いを求めましょう。今年の年間テ −マは「礼拝」です。神の光に包まれて、教会全体が明るく輝く礼拝、聖霊が躍動しているような礼 拝を主に捧げたいと心から祈っています。またこの4月は「礼拝と希望」月間であります。私達は主 の復活を喜びあうイ−スタ-礼拝の翌日から、新年度の歩みがスタ−トできたことは意味の深い恵みで あったと感じます。ペトロ書にあるように、私達は新しく生まれ変わった者、死者から復活した神の 子供、また神の民とされたことを感謝し、自らを生きた聖なる供え物として主に捧げたいと願います。 「自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献 げなさい」(ロ−マ6:13)時には敵であるサタンは、愛する主のために喜んで奉仕したいと決心した人 達を激しく、集中攻撃し、献身の思いを奪い去ろうしてきます。しかし、恐れる必要はありません。 たえざる祈りによるならば、必ず勝利する事ができます。私達の年間のみ言である「耳を傾けて聞き、 わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ」(イザヤ5:3)の命令に従い、主のもとに行き、 神の命の祝福にあふれ献身の民となっていきたいものです。




2002年4月14日

 希望を持って

牧師 犬塚 修

 もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリス トと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。
 現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思い ます。被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、 それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っ ています。つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由 にあずかれるからです。
(ロ−マ8:17 〜21)

「金持ちけんかせず」という面白い諺があります。確かに、心が聖霊に満たされているならば、少々の 事では争いません。「もし、1億円を持っているならば、たかが1万円のことではけんかしないでし ょう。そんなことは取るに足りない」とゆとりをもってとらえられるからです。イライラするのは、 自分の心に余裕がなくなった時です。現在の苦しみは、取るに足りないと断言して生きることはとて も大切な真理であると確信します。私達は信仰によって自由で喜びに満ちた存在とされています。被 造物は今、虚無に服していても、彼らの希望のしるしは、神の子たちの出現なのです。一人の魂が救 われるならば、天において喜びがあるだけではなく、この地上の被造物も大きな希望を抱くとありま す。ですから、救われること以上のすばらしい恵みは他にはありません。今年、多くの魂をイエス様 のもとに導けるように熱心に主に祈りを捧げましょう。不安と苦悩と絶望感に苦しむ友に対して、イ エス様の愛は伝えましょう。私達がイエス様を受け入れた時、栄光に輝く自由が惜しみなく与えられ ます。そして大空にはばたく鳥にように共に自由に生きるのです。




2002年4月21日

絶望から希望へ

牧師 犬塚 修

最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことがで きるように、神の武具を身に着けなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配 と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エフェソ6:10〜12)

主を信じ、主の栄光を現したいと願い、志を高くして立ち上がろうと一歩前に歩み出そうとすると、ふ しぎな事に、次々にいやな出来事が起こってくる時はないでしょうか。そして、不愉快な感情に陥った り、または「結局、自分はダメなんだ」という無力感に襲われます。また現実もあまり変わらず、結局は 「元の木阿弥」のような感がするのです。そのような時、私たちは自分や他者をどうしても裁きたくな ってしまいます。しかし、そのような時こそ、私たちは本当の敵−つまり悪魔を見抜くべきなのです。 知らず知らずの内に、私たちを誘惑し、信仰心を奪い取り、暗い絶望に突き落とそうとする悪魔を。私 達は何度も、その狡猾な手に引っかかって、失敗をくり返した事はないでしょうか。裁きの心、苦々し い感情、不快感、焦燥感、自己嫌悪感、などは悪魔に負けた結果、心に残った焼け跡なのです。けれど も、そこから新しい命がたくましくよみがえってきます。どんなに打ちのめされても不死鳥のように立 ち上がるためには、聖霊を求めて熱心に祈る事です。主は私たちに救いを備えておられます。主に聞き 従う人生には命が燃えるような喜びがあります。確かに悪魔も負けてはいません。どうにかして聖徒た ちの心をくじき、何もしない、何もしたくないという霊的スランプに長い間、閉じ込めようと暗躍する かもしれませんが、恐れる事はありません。祈り続ける人はあらゆる災いから守られ、必ず勝利を得る 事ができます。故に、私達は大きな希望にあふれて共に生きていくのです。




2002年4月28日

希望に満ちた交わり

牧師 犬塚 修

また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求 めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まると ころには、わたしもその中にいるのである。マタイ18:19〜20

昨主日の「セルの全体学び会」において、私達は教会における交わりの豊かさについて学ぶことができま した。私達の生きる喜びや希望は、自分の心の「中」にある以上に、実は「互いの間」にある事を教えられ、 交わりのすばらしさと可能性を教えられました。わずか人数による小グル−プの交わりを定期的に持つ 事で、お互いの交わりが深くなり、家族のような親しさを持つことができるようになります。(そのひな 形は毎週もたれている「祈り会」です。)それをセル活動(細胞)といいます。生きた細胞は成長し、さら に新しい細胞を生んでいきます。それが生きた教会の姿です。小さな交わりの場で、自分を少しも隠す ことなく、飾らない自分でいて良い場所を持てることは何と幸いな恵みでしょうか。日常生活では、自 分の悩みや問題を人に相談できる事はそんなに多くは持てません。しかし、悩みを自分だけでかかえて いると次第に疲れ、ストレスに苦しむようになります。それを解消し、さらに、根本的な解決の光が与 えられる場を多く持つことはすばらしいことです。共に集まり、祈りとみ言葉を基とした愛の交わりは 私達を深くいやし、かつ成長させます。初代教会の驚嘆する成長の秘訣はこの交わりの展開にありまし た。「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。…信者たち は皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれ を分け合った」(使徒言行録2:42〜45)この愛の実践と交わりは世界を変えるでしょう。



TOP