巻頭言
2001年4月


2001年4月 1日

「神の偉大な知恵と交わり」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

ヨブは主に答えて言った。あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。 「これは何者か。知識もないのに、神の経綸を隠そうとするとは。」そのとおりです。(ヨブ記42:1 〜3)

今日から2001年度が始まります。この月はヨブ記を学びますが、この書には、神の偉大な知恵が 深く記されています。激しい試練で苦しんだヨブは私達人類の代表者です。私達も人生の中で、暗い 谷底を這いずり回るような苦しみに遭う時があります。それは絶望と諦めと、悲しみに満ちた暗黒の 時であって、どうしようもない無力感に打ちのめされる辛い日々です。ヨブ記は私達の深刻な魂の叫 びを表しています。どうしてこんな事が私の身に起こるのか…という悲痛な嘆きがあふれます。そん な時は、ヨブ記は豊かな慰めと励ましを与えてくれます。そして私達は、神の偉大な知恵に圧倒され、 傷ついた心は癒されていくのです。私達は試練の時に、信仰が試されます。大体、私達の信仰は御利 益的になる危険性があります。それは「与えるだけの神、即ち、人間に都合の良い甘いだけの神」を求 めがちです。しかし、神は「与え、奪う厳しい神」です。神の愛は十字架の愛です。それは命をかけ た厳しい愛です。「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。…… 「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。 なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである。」あなたがたは、 これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、 父から鍛えられない子があるでしょうか。」(ヘフライ12:4〜7)私達は辛い試練を通してこそ、神と の深い交わりに入り、真理に目覚め、信仰が純化され、練達した働き人に成長していくのです。  




2001年4月 8日

「受難週」を迎えて

牧師 犬塚 修

彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼はわたしたち に顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。彼が担ったのはわたしたちの病、 彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかか り、打たれたから、彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背 きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲 らしめによって、わたしたちに平和が与え彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされ た。(イザヤ53:3 〜5)

いかに元気な人でも、重病にかかったり、また難問題で心が痛み、傷つきます。しかし、 その時は、信仰の深みに導かれる最高の恵みの時です。物事が順調にいっている時は誰で も感謝できます。しかし、不調の時は中々そうはできません。そんな時は、主を見上げる ことです。すると、主は私達のすぐ近くに来られ、強く励まして下さいます。ですから、 たとえ人々から軽蔑され、見捨てられても大丈夫です。また、痛み、悩み、重い病に侵さ れていても、何でもありません。その人はイエス様が自分と同じ所に臨在されていること を悟るのです。イエス様の永遠の命は、悲しむ人に希望と平安を与えます。「その証しとは 、神が永遠の命をわたしたちに与えられたこと、そして、この命が御子の内にあるという ことです。「御子と結ばれている人にはこの命があり」(第一ヨハネ5:11〜12)、痛みと苦し み、将来への不安があってもイエス様の愛は注がれています。無念な死でさえも人生の終 わりではなく、永遠の命に至るものです。ゆえに辛い痛みや病や苦しみに会っても恐れる ことはありません。そこに確かにイエス様はおられます。主は十字架にかかって私達のす べての苦悩、苦痛もそのままで吸い取り、全き永遠の命を代りに与えられたのです。  




2001年4月15日

イースター

特別な週報のために巻頭言はお休みしました。   




2001年4月22日

買収された兵士達

牧師 犬塚 修

数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。そこで、 祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、言った。 「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と 言いなさい。もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなた がたには心配をかけないようにしよう。兵士たちは金を受け取って、教えられたと おりにした。この話しは、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。(マタイ28:11〜15)

世界の歴史は、主イエスの復活を決して信じようとはしない不信の歴史でもありました。 その原因の一つは、イエスの復活の出来事を目撃した兵士達が、勇気をもって事実を証言 しなかったからと記されています。兵士達は、実はイエスは甦った事と知っていました。 しかし、彼らは事実よりも権力と大金の誘惑に屈してしまいました。その結果、イエスの 復活は事実無根とされたのです。これ以後、世界は二千年間という長い間、まことの神を 礼拝し、永遠の命を信じて希望に生きる喜びの歴史を形成していくよりも、むしろ、絶望 と悲しみ、不信仰と裏切りという暗黒の部分を作り出してきたのではないでしょうか。 もし、一人の兵士が復活の事実を認め、語る勇気を持って「いや、私は嘘はつけない。 確かにイエスは甦った!」と正直に証言したならば、世界の歴史は、もっと違ったかもし れません。そう思うと、一人の真実な証しが、どんなに重大な意味と意義を持つかに驚き を覚えます。 小さな一人の勇気、愛、謙遜さが、暗黒を光へと変えることができるのです。 一人の力は大河の一滴のように小さなものかもしれません。しかし、一人一人が立ち上がり、 復活されたイエス様は今も生きておられると信じ、言い続けるならば、世界は変えられてい くでしょう。その時、暗黒から朝の光が輝いてきます。復活のイエス様は私達の証しを通して、 永遠の命に至る奇しい御業を、今からでも起こして下さいます。




2001年4月29日

待つことのすばらしさ

牧師 犬塚 修

神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです。もう 少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。(ヘブライ10:36〜37)

「待つ」ことは本当に難しい事です。私達日本人はエレベ−タ−に乗ったら2〜3秒か待 てずに、すぐに「閉」のボタンを押してしまう人が多いようです。しかし、神のみわざは どこか植物の成長と似ていると思うほどに、実にゆったりした一面があります。種が豊 かな実を結ぶためには、長くかかるように、主は長い時をかけてみわざを推し進められ ます。ゆえに、私達も自らを主のペ−スに合わせる事が大切です。待たなかった人とし て思い出すのは、イスラエルの初代の王サウルです。彼の前途は洋々たるものでした。 しかし、ある日、待てずにしてはならない事を企て、大失敗しました。「サウルは、サ ムエルが命じたように、七日間待った。だが、サムエルはギルガルに来なかった。兵は サウルのもとから散り始めた。 サウルは、…焼き尽くす献げ物をささげた。」(第一サム エル13:8〜9)彼は現実を見て心配し、主を見上げる事を忘れました。確かに、信じて待 つ姿勢を失うと、それに比例して不安は増え、人々の動向や評価におびえるようになる ものです。もし、サウロが現実はどうであれ、ひたすら、サムエルの到来を待ち続けた ならば、どんなにすばらしい勝利を勝ち得た事でしょうか。本当に残念です。主を信じ、 平安の心をもって待っていると、主は時が満ちた時、祝福を携えて来られます。それは最 も良い時に実現します。ですから、慌てることも、うろたえなくても良いのです。「何事に も時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。」(コヘレト3:1)とあります。 主は時期も人もすべてを支配しておられますので、思い煩わないで生きたいものです。



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