巻頭言
2000年4月


2000年4月 2日

2000年度を迎えて

牧師 犬塚 修

「彼は言った。「わたしの後について来なさい。主は敵モアブをあなたたちの手に渡し てくださった。」彼らはそのエフドに従って下り、モアブに向かうヨルダンの渡しを手 中に収めた」(士師記3:28)

エフドは勇気を出して、戦いに臨み、見事に勝利をイスラエルにもたらしました。しかし、 この戦いのためにどんなに悩み、苦しみ、不安に脅えたことでしょう。「もしかして、大 失敗をするかもしれない」という否定的な思いで、胸がしめつけられるような重苦しいス トレスに悩んだかもしれません。

私たちも同じではないでしょうか。しかし、私たちはあらゆ るストレスから解放される道を知っています。それは、勝利者イエスに信頼する道です。 私達たちの先導者はイエス・キリストです。主は十字架と復活によって、圧倒的な勝利をおさ められました。今や、私たちはこの勝利の主に従い、すべてをお任せするだけで良いのです。

「イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はす ぐに網を捨てて従った」(マタイ4:19〜20)とあります。この年、私たちの行く手に何が待って いるのでしようか。主に信頼する人には大勝利が待っているのです。たとえ、私たちを襲って くるものが一見恐ろしいものに見えても、それもまた祝福に変えられることでしょう。故に、 私たちは喜びと感謝をもって、大胆に主に従うのです。また喜んで主の訓練を受ける事を望む のです。なぜならば、厳しい訓練こそが、私たちの信仰を本物に成長してくれるからです。そ して、訓練された者は、力強い福音の証し人となって、熱心に伝道に立ち上がります。

今年、 多くの人々が礼拝に導かれ、救いに与る事を共に祈りあいましょう。多くの魂の大収穫の年 となりますように。




2000年4月 9日

訓練について

牧師 犬塚 修

「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落とし てはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打 たれるからである。」 あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あな たがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子がある でしょうか。 (ヘブライ12:5〜7)

オリンピックに出場するという大きな夢を持った選手は、その大きな目標に向かっ て毎日厳しいトレ−ニングに励む事でしょう。それが、どんなに辛い訓練であっても、 栄光の舞台に立つ歓喜を考えたならば、どんな苦しみにも耐える事ができるようです。

私たちもまた、人生という神の栄光の舞台に立つ役者であり、またマラソンコ−スを 走る選手です。「あながたも賞を得るように走りなさい。競技をする人は皆、すべて に節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない 冠を得るために節制するのです。」 (第一コリント9:24〜25)いつか私たちも天国に凱旋します。

私は、時々、主のみ声を聞こえる気がします。それは「私はあなたのために命を捨てました。 あなたは私のために何をしてくれましたか?」という静かなみ声です。その時、私はドキッ とします。そして何としても主の愛に応える生き方をしたいと願うのです。

また、私たちが主の役に立つ器となるためには、主の訓練を受けねばなりません。 それは人生に起こる様々な苦しみの事でもあります。普通は、それは私たちに対する神の 罰とか、冷たい仕打ちと考えがちですが、決してそうではありません。むしろ、それを通して、 主は私たちを有益な者として清めて下さるためです。鞭で打たれる事は痛くても、 それも愛の表れなのです。故に、主のために、大きな夢を持ち、訓練に耐えて成長したいものです。



2000年4月16日

訓練と畏れ

牧師 犬塚 契

恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前 に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。 (出エジプト記20:20)

かの有名な十戒を与えたすぐ後、神様は雷鳴、稲妻、角笛の音、煙を用いてご自身を現された。 それを見たイスラエルの人々は震え上がった。その人々にモーセが語った言葉が上記の御言葉で ある。

恐れるときがある。不安になるときがある。震えるときがある。不信仰から来るものなのだろう かと自分に問う。時に神様は、御自分の愛する民の信仰を試すために、恐れという状況の中にお かれる。クリスチャンになったから、何も悩まなくなった、何も問題がなくなった、何も苦しま なくなった、ということはないように思う。

神の家族に加えられた事実は、誰が否定しようが、どんなことが起ころうが、決して変わらない。 しかし、神の家族に加えられたからこそ、通らせていただくところがあるように感じる。罪につ いての自覚である。いくらだって、ごまかす方法はある。忘れさせる方法はある。すりかえる方 法はある。世の中は、その方法で満ちている。クリスチャンであっても、キリストの十字架がお 飾りになってしまうと、無数にある安易な替え玉にすりかえられてしまう。そんなとき、神様は 私たちの訓練のために畏れを用いる。そのときに、気づいていきたい。

聖書の信仰の人々は、畏 れに敏感であったか、否かによって大きく分かれていった。ダビデは受け止め、サウルはごまかした。 ペトロは悔い改め、ユダは自決した。

神様からの訓練に敏感に歩んでいきたいと思わされるのである。



2000年4月23日

イエスは復活された!

牧師 犬塚 契

「死は勝利にのみ込まれた。 死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、 お前のとげはどこにあるのか。」(コリント一15:54〜55)

私たちを恐れさせるものに死があります。死は虚無の世界です。人間は死後ど うなるのか、だれも知りません。だから、不安なのです。

秦の始皇帝は死を恐れ、 不老長寿の霊薬を求めて、密使を日本国にまで派遣しました。しかし、その熱い 望みも叶わず、まだ49才の若さで死にました。彼は死を恐怖しながらこの世か ら消えていったのです。

どんな独裁者でも、死の前には無力です。皆、同じよう に不安に苦しみながら死んでいきます。パウロも死は人間にとって最大の敵であ ると言っています。人間はいつまでも健康に生きていきたいのですが、いつか必 ず衰えていきます。そして死は、突然訪れます。また、ジワジワと押し寄せて来る 時もあります。

一体どうしたら、私たちは死の恐怖に打ち勝つ事ができるのでし ょうか。 唯一の救いの道があります。それは、死を体験し、死後の世界につい て、精通している人の話しに耳を傾けることです。

そんな人がいるのでしょう か。完全に死に、陰府にまで下った人が…。います。それがイエス・キリスト なのです。イエスは、二千年前、カルバリ(どくろの丘という意味の処刑場)で、 十字架にかかり、死なれました。それは私達人類の罪を一身に背負い、救いの みわざを完成するためでした。そして、三日目に死の世界から復活されました。

なぜか?イエスは神の子であるからです。今、私たちと共に生きておられます。 永遠までも!この復活されたお方を信じることが救いです。イエスは死に勝った 唯一のお方です。

このイエスを信じる人はもれなく永遠の命を与えられます。も はや死を恐れる必要はありません。イエスによって、死の支配は終わったのです から、ハレルヤ!と救いの神を讃美しましょう。



2000年4月30日

太陽を浴びながら

牧師 犬塚 契

古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。(コリント二5:17)

桜が散って、新緑の美しい季節になった。太陽の光がまぶしいくらいに目に入って くる。いよいよ、サンダルとティーシャツの出番である。太陽は、えこひいきして いない。落ち込んでいようと、浮かれていようと、善人であろうと、悪人であろう と、やはり平等に光りと温かさを提供する。しかし、部屋の中に閉じこもり、網戸 を締め切って、鍵をかけ、布団に入っていたら、当然光りは届かない。ここで神の 愛のことを思う。神様がご自身を啓示されるときに、自らすべてをさえぎってしま ったら神様はどうすることもできない。無理にこじ開け、不法進入してくるような 神様ではないのである。

鍵をあけ外に出る、このことによって、太陽の光りと温かさは得ることができる。 そのことには、決断と勇気がいる。わたしたちは、往々にして鍵をかけ、窓を締め切 って、神様を待っていることがあるように思う。「神様は何もしてくれない」と文句 が口をついて出る。「見よ、すべてが新しくなったのである。」わたしたちがなすべ きことは、ただひとつ見ることである。「見よ、おとめがみごもって男の子を産むで あろう。」「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに 伝える。」「主がお知らせ下さったその出来事を見てこようではないか。」

見ていきたいと祈る。復活の後のイエス様に会った二人の弟子たちは、エマオへの途上 で「彼らの目がさえぎられて、イエスを認めることができなかった」。しかし、目が 開け見ることができるようになったとき、「お互いの心が内に燃えた」のである。心 の鍵を神の前に開け、恵みを今週も見ていきたいのである。


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