巻頭言
1999年3月


1999年3月 7日

「礼拝と教会」月間を迎えて

牧師 犬塚 修

愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、 神から生まれ、神を知っているからです。(ヨハネ一4:7)

『平和の祈り』
神よ、わたしを平和のために用いてください。
憎しみのあるところに 愛を
争いのあるところに 和解を
分裂のあるところに 一致を
疑いのあるところに 真実を
絶望のあるところに 希望を
悲しみのあるところに 喜びを
暗闇のあるところに 光を
もたらすことができるように 助け導いてください。
神よ、わたしに 慰められることよりも 慰めることを
理解されることよりも 理解することを
愛されることよりも 愛することを 望ませてください。
わたしたちは 与えることによって 与えられ
すすんですることによって ゆるされ
人のために死ぬことによって 永遠に生きることができるからです。
(アシジの聖フランシスコ)

教会はキリストのからだです。教会の使命は頭なるキリストの命令に 従うことです。主は無限の愛を注いで、私たちを愛してくださいます。 その恵みは無尽蔵です。この愛に応えて自分を献げることが礼拝です。

私たちが真心から主に従う時、フランシスコの祈りが力強く迫って きます。ここには人類の美しい祈りが結晶化しています。重い運命の 鉄鎖を打ち砕くのは愛であり、祈りです。また、神が必ず教会の 祈りを叶えてくださいます。



1999年3月14日

悔い改めて生きよ

牧師 犬塚 修

わたしは愛する者を皆、叱ったり、鍛えたりする。だから、熱心に努めよ。悔い改めよ。 (ヨハネの黙示録3:19)

主は愛する者を厳しく訓練される時があります。「およそ鍛練というものは、当座は喜ばし いものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、 義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブライ12:11)とあります。主は特別に愛さ れる者に試練を与えられます。その人に大いに望みをかけておられるからです。

ヨセフの 人生は試練の連続でした。彼は長い間、牢獄に閉じ込められていましたが、それが、彼の 素晴らしい霊性を養ったのです。彼はいよいよ謙遜、かつ愛の人として人格が深められて いきました。「だから熱心に努めよ。悔い改めよ」とあります。完全な人は一人もいません。 皆罪人です。私達が健全な歩みをする為には、絶えず悔い改める事が大切なのです。これ は、「180度歩み方を変える」意味だからです。

しかし、私達は悔い改めが苦手です。変わ る事が恐いからです。自我の本質は、「自己中心と自己神化」です。心の王座に主を王とし てお迎えするのです。かつて、私達の国は天皇の名のもとに、アジアの同胞を大量虐殺を繰り 返しました。その負の遺産を私達は背負っています。心から悔い改めないと、再び同じ罪を 繰り返す危険性があります。私達は自国の犯した罪を直視し、悔い改める務めが神から与え られています。

そして教会は率先して神のみ前に悔い改めという祭司の使命があります。ユ ダヤ人は、「過去(ケデム)」を「前方にあるもの」ととらえました。過去を真正面から見 つめ、そこから逃げず、戦いつつ祈り、和解の務めを果たすのです。その時、未来(アハロ −ン−後ろに続くものの意味)は明るいものとなるでしょう。主の愛の訓練を受け、感謝し て生きたいものです。



1999年3月21日

愛の教会として

牧師 犬塚 修

すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。愛は決して滅びない。(コリント一13:7,8)

教会は愛の生命体です。この愛は人間的な(肉的、血縁的、人情的)愛ではなく、 神の愛(アガペです。この愛は、「すべてを忍ぶ」のです。この「忍ぶ」とは、 「黙って隠しておく。他人の欠点、過去を覆い隠す、辛抱する。」の意味です。

酔っぱらって、情けない格好でねむっていたノアに対し、息子のセム、ヤフェテ は、その恥を見ることなく、マントをもって父の裸を覆い隠しました。その様に、 愛は相手の罪や弱さを暴露したり、責めたりせず、それを赦そうとするのです。

また、「耐える」とは「後に残る(逃げ出さずに)留まる、持ちこたえる、待望 する」とも訳することができます。愛とは、神の力によって一つのことをやり とげる特殊な能力なのです。

神の都エレサレムは、歴史上、幾度も破壊されましたが、 再び復興を遂げ、今日に至っています。そのありのままの姿が私たちを感動を 与えるのです。この聖都の偉大さは、何度も廃墟の中から不屈に甦ってきたところに あるのです。「長く生きることは一つの才能である。」(ウァレリー)とあります。 何度打ちのめされても、立ち上がることは至難のわざです。

教会は、死という 極限の虚無から復活されたイエス・キリストを信じます。このお方が復活の 力を与えてくださいます故に、「耐える」ことができるのです。エレサレムの 遺跡は何度も掘り起こされ、修復と破壊が繰り返されましたが、そのことに よって、益々歴史上に「重層的な輝き」を放つものとなっていったのです。教会の 歴史、そして教会に連なる私たちの自伝史にも、同じことが言えるのです。



1999年3月28日

受難週を迎えて

牧師 犬塚 修

「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわた しをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)

人生において、真っ暗闇と感じられる時もあろう。生きることに疲れ果て、 無気力となり、傷つき倒れてしまう絶望の夜もあろう。人はそのような時を 「悲しみの日々」と呼ぶ。しかし、神を信じる者にとって、最悪な時は最善の 時となるのである。なぜならば、神は、いつしかその絶望を希望と変えられ るからである。

 イエスは一体どこにおられたのか。主はゴルゴダ(どくろ)の丘におられた。 そこで愛する主は裸にされ、十字架につけられ、狂うばかりの痛みを味わわ れた。そして、この主は、今も私たちの暗黒と絶望のただ中におられ、私た ちと共に「わが神、わが神」と叫んでくださるのである。

私たちにとって最も恐ろしいことは、叫びかけても、心から耳を傾けてくれる 対話者がいないことである。実験によると人間は、全く音のない世界、また、 光のない所に閉じ込められると、気が狂うという。イエスは激痛の中で「わが 神よ」と叫ぶ天の父と語り合うことがおできになった。ここに私たちの救いがある。

私たちも、苦しい時は大声で、神を呼ぶ。思う存分、叫び呻く。そして、神は私たち の叫びを真実に受け止めてくださる。この真実な応答関係の先には、復活の曙光(しょ こう)が見えてくる。私たちは、イエスのように叫ぶことが許されている。我慢でなく、 逃げ回るのでもなく、重荷を肩に担いつつ、ただ神の前に出る。そして幼児のように 泣く時、神は、必ず新しい逃れの道を示される。悲惨、屈辱、死という苦しみの種子 は蒔かれた後、栄光と誉れと永遠の命という果実を実らせるのである。

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