巻頭言
2024年3月


2024年3月3日

「光と闇」 

草島 豊牧師

イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がど こへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」      <ヨハネによる福音書12章27〜36節>

 ヨハネによる福音書では世界は光と闇の二つに分けられる。光はイエスを受け入れた者たち。闇はイエスを理解せず、排除する者たち。そして「ユダヤ人」「世」は「光」と敵対する相手として描かれる。しかし同時に敵対する相手はどうでもよい存在ではなく、その人たちへの働きかけを決してやめない。イエスは語る。「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る(20:23)」。だからあきらめずに、敵対する者たちに語りつづけなさい、と。なぜそんなことをするのか、できるのか。それは「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため」だから(3:16)。イエスは「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう(12:32)」と語る。だから迫害されているヨハネ教会の信徒たちは敵対する世への働きかけをあきらめなかった。▲ただ、そう簡単にはいかない。今日の場面でイエスは理解されずに、立ち去って身を隠された。これは挫折。しかし挫折で終わりではない。社会から理解されず、排除され、心が折れたとき、いったんそこから下がって、イエスの言葉を聞く。これは礼拝のとき。▲イエスがいったん身を隠されたように、ヨハネの信徒たちが逃げて来たように、私たちも現実から逃げて、礼拝に来ればいい。自分が闇の中で埋もれているかのように思えても、闇に染まっていると思えても、もうだめだ、と思っても神はこう言うだろう。「あなたは光の子だ」「さあ、光についておいで」と。ヨハネ教会の人々が日常から礼拝に戻り、イエスの言葉を聴き、そしてまた世に出て行ったように、わたしたちもまた礼拝の中でイエスの物語を聴いて、そこから始めたらいい。一見、闇としか思えない世界に向かって。



2024年3月10日

「キリストによらなければ、何もできない」

市川牧人神学生

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。 <ヨハネによる福音書15章1-11節>

 『わたしはまことのぶどうの木』イエス様はご自分のことをこのように表現なさりました。ぶどうの木と言えばたわわに実るぶどうの実やそこから加工されて作られるワインなど、私たちの生活に豊かさと彩を与えてくれる植物です。しかし、エゼキエル書15章にはこのようにあります。「ぶどうの木は森の木々の中で、枝のあるどの木よりもすぐれているであろうか。 ぶどうの木から、何か役に立つものを作るための木材がとれるだろうか。……もはや何の役にも立たないではないか。」ぶどうの木は背丈が低く加工もしにくい脆い木材であるため、弱く不完全なものとして語られています。イエス様はご自分のことを弱く不完全なぶどうの木に例えられました。また、イエス様は「まことのぶどうの木」とご自分を表現されました。この「まことの」という形容詞は「アレースィノス」、つまり、「隠れていない」(「ア」否定辞+「レース」隠れている)という意味です。イエス様はご自分の姿を人々の前に晒し、人間としての弱さも、痛みも、苦悩もすべてさらけ出しました。何よりも主なる神をその姿とみことばにおいて人間に分かるように啓示なさいました。つまり、『わたしはまことのぶどうの木』と言うとき、イエス様は「わたしは何からも隠れていない、弱く、不完全なぶどうの木のような者である」というメッセージを語っていた、と私は思うのです。そのような姿はこの直後の十字架において完全に示されたのです。衣服をはぎ取られ、最も惨めな姿で十字架に架かるその姿には、まさにぶどうの木のような弱ささと不完全さがあります。しかし、私たち信仰者は、そこにこそ救いがあるということを知っています。イエスキリストの十字架における弱さと、愚かさと、不完全さに、私たちの罪をすべて担って死なれた、ということが示されています。ここに示された弱さにこそ、主イエスキリストの復活の勝利があるのです。この恵みによらなければ私たちは何もできないのです。私たちはイエスキリストに示された弱くされた姿に留まりたいと思います。主イエスの十字架のその姿に連なりたいと思います。主イエスの十字架に示された愛に応えていきたいと思います。



2024年3月17日

「主によって平和を得るため」

犬塚 美佐子師

その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」  <ヨハネによる福音書16章25-33節>

 一つの業を遂行するために、誰がそれを担うかは、非常に重要な事です。ましてや、人の命がかかっているとなると、尚更です。神に背き「的外れの道(罪)」に歩んだ人間が、神に向き直り、悔い改め、神との交わりに再び平安を取り戻すためには、神ご自身の深く重い決断が必要でした。神は、自らの子を世に遣わし、十字架に至らしめ、あがないとする方法を取られました。ヨセフとマリヤの子として生まれたイエスがヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた直後「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という天からの神の声が響きました。さらに神は、十字架に死んだ子なるキリストを生かし、人間を救う道を完成されました。「これらのことを話したのは、あなた方が、わたし(イエス)によって、平和を得るためである。あなた方には、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)「絶大なる悲劇があると共に、私たちには不死の希望か゛あり、全き敗北と共に、完全なる勝利があり、絶望的な弱さの中に、何物にも動かされない勇気があり、この世の終わりは絶えて、麗しき天国の霊交に入る約束を見ることができる」(「荒野の泉」より)▼復活させられたキリスト・イエスが神の右に座り「私たちのために執成してくださる。誰がキリストの愛から、私たちを引き離す事ができましょう。……私たちは、私たちを愛して下さる方によって輝かしい勝利を収めています」(ローマ8:34〜37)



budou 2024年3月24日

「真理はどこから?」

林大仁神学生

  イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、 部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理につい て証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」 ピラトは言った。「真理とは何か。」 <ヨハネによる福音書18章28-38節前半>

 28節の頭に出てくる人々というのは、ファリサイ派の人々のところで働いていた下役の人たちや祭司長たちのことです。下役の人たちは、イエスに暴行を加えることに何の憚りもありません。使徒言行録23:1に出てくるパウロの告白に照らし合わせると、彼らの良心は、機能を失ったと言えます。この人々は、総督のところにまでイエスを連れていっていき、いざ自分たちは中に入りません。過越の祭の食事をするため、汚れてはいけないと言うのです。ならば、仮に、イエスに自分たちの権威を否定されたとしても、殺そうとしているイエスのそれまでの言葉や行い、癒しなどを総合的に考え、この人って、もしかしたらメシア、過越の本当のいけにえなのではないかと疑ってもいいはずでした。ところが、彼らはそうしません。イエスを殺そうとする汚れた良心を持ったまま、自分たちは汚れたくないから総督官邸の中には入らないという、詭弁に満ちた行動を取ります。われわれの教会では、真のいけにえとしての主イエス・キリストを記念し、主の晩餐式を月1回行います。その際に、われわれは何を思いながらパンを頂き、ぶどう酒を頂くのでしょうか。主の晩餐式は、とてつもない祝福の現われです。月1回新たな体に替えられ、月1回キリストの新たな血が自分に流れる体験をすることが出来るのです。総督のピラトは、ユダヤ人たちの司法組織であるサンヘドリンから訴えが起こされたことを受けて、裁判官として、ユダヤ人たちとイエス、両方を尋問しました。当初ピラトは、ローマ法に従って罰しなければならない罪が、イエスには見当たらないと判断し、返そうとします。そう思ったなら、司法の責任者として、そう行動すべきでした。が、彼はそうしませんでした。ヨハネによる福音書には、真理と訳されるアレセイアという言葉がたくさん出てきます。マルコ5:33ではその言葉を「ありのまま」と記しています。真理とは、付けたり足したり引いたりせず、事実をそのまま語ることだと言うのです。イエスは「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。」と言われます。本当のこと、真実を語るためにこの世に来られたというのです。また、イエスは「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ともおっしゃいました。神の言葉を聞き、イエスの声を聞く人は、神に属し、真理そのものであられるイエスに属します。真理はそこから生まれるのです。



budou 2024年3月31日

「成し遂げられた今」

草島 豊協力牧師

イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた。 19:18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた。… イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。 <ヨハネによる福音書19章17-30節>

 イエスの十字架刑。受難。しかしヨハネによる福音書を読んでいるとイエスは難を受けるというよりも、自発的に難を引き受けていくように見える。困難に遭遇しているのはむしろ福音書の読者でイエスはそんな読者を励ましている、と。▲ヨハネ教会の大多数はユダヤ人。しかし同じユダヤ人から理解されず、逆に敵視され、排除される。迫害され、自分たちの宣教が徒労となる中で、イエスへの信仰をやめてユダヤ教にもどるか、それともこの信仰に立ち続けるかという選択を迫られる、そんな試練の中。イエスが語りかける「成し遂げられた」。それはこのヨハネ教会の人々、この物語の読者にも向かってくる。十字架上で息絶えるイエスを前に不安、恐れ、戸惑いの中にある弟子たちはヨハネ教会の人々の姿であり、今の私たちの姿でもある。そんな私たちを励ますイエスの姿、その眼差。イエスは復活後、いまや聖霊としてこの私たちと共にある。イエスの約束通り、聖霊が私たちに与えられた今、それが「成し遂げられた今」の時。▲十字架、復活、昇天、そして聖霊が与えられたこと。これらのことをつい、2000年前の歴史的な過去の出来事と思ってしまってはいないか。そんな私たちに対してイエスは再び十字架の上で投げかける。神の救いの業は「成し遂げられている」と。私たちが生きているこの今は、神の御心が成就した時。それはイエスが聖霊として私たちと共にあり、働いているとき。しかし、私たちの願いが実現するときではない。十字架の上から投げかけられるイエスの言葉「成し遂げられた」。そして十字架の上から私たちに注がれるイエスの眼差し。それは「大丈夫だ」「私がついている」「安心して信じなさい」「あなたは独りではない」「聖霊と共に歩みなさい」…そんな眼差しが向けられている。




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