巻頭言
2023年3月


2023年3月5日

「見つけだすまで」 

犬塚 契牧師

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」      <ルカによる福音書15章1−10節>

聞いている貧しい者たちの中に、百匹の羊を持っているものなどいなかったことでしょう。庶民には大きすぎる財産です。それでも違和感なく聞かれたとすれば、みなで所有し、管理している大切な羊たちの話でした。羊飼いも一人であったのはなく、九十九匹はほかの羊飼いたちが連れて村に戻ったのでしょう。足跡を追いつつ、迷った羊の居場所を探すのは時に命がけであり、重労働でした。うずくまり、力なく鳴く羊の声を羊飼いの耳は拾い助け出します。もし荒野で死んでいるようなことがあっても、勝手に売り飛ばしたとの疑念を晴らすべく、持って帰るか、毛を刈って村に戻りました。村は羊飼いと共に羊が戻るのを今かと今かと待ち望んだのでしょう。そして、戻ってくれば、歓喜と共に喜んだ…そんな場面でした。「見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」という主イエスの投げかけは、修辞疑問文で、しかるべき応答を強く求めるものです。つまりは、「捜しまわるさ!当たり前のことじゃないか」。そんな反応が期待されました。そして、「…このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と結ばれます。予想外の転回でした。罪人が一人でも多く世界からいなくなればいいのに、それこそがきっと神の望みなのに…そんな世間がありました。▲ネットの普及によって、一度「炎上」すれば、名前や住所、卒業アルバム、成育歴まで容赦なく公開され、閲覧され、残される時代です。容赦ない厳罰化が叫ばれます。主イエスの周りもまた過酷な状況下、人々の心の荒廃、希望と自尊心の危機があったのでしょう。しかし、改めての神の御想いの提示があります。啓示があります。信じること、望むこと、愛すること…どうかやめないで、それを生きたいのです。



2023年3月12日

「気を落とさずに」

犬塚 契牧師

「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。…『自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。しかし、あのやもめは、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやろう。…』」それから、主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。…。しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」  <ルカによる福音書18章1−8節>

すでに十字架が待つエルサレムへの旅の中にあります。嘘のような暗雲が山の向こうに見え、生暖かい風が吹いています。先を思えば足もすくんでしまうような状況で、主イエスは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えます。しかし、なんだか分かり難いたとえでもあります。神を畏れず、人を人とも思わない裁判官と慈愛に満ちた神が類比され、なおかつ最後にはまた意味深な言葉が加えられて終わるからです。すんなりと理解できるものではありませんが、聞いていた者たちの現実を切り取ったようなたとえであったのでしょう。容赦のないローマの弾圧とはびこる不正、機能していない司法と賄賂と忖度の社会。秩序を失った狂った世界があります。裁判官は悔い改めもなく、反省の色も見せません。それでもあきらめなかったやもめは、執拗に求めて得るべきを得ました。小さくない立派な勝利です。そんな実話があったのでしょう。彼女は、誰もが知る村の有名人です。1mmも進展しないような現実と変わり得ない日常が横たわり動かない中にありつつ、早急に祈りを放棄してはならないのでしょう。祈らぬ傲慢もあきらめる怠慢も丸投げの甘えも信仰者にふさわしい心持ちではありません。ただそこに主イエスの嘆きと励ましが響きます。大丈夫か、伝わるか、歩けるか、立てるか、祈れるか、生きれるか…。十字架への道中の御想いの深さです。



2023年3月19日

「主がお入り用なのです」

犬塚 契牧師

二人は、「主がお入り用なのです」と言った。そして、子ろばをイエスのところに引いて来て、その上に自分の服をかけ、イエスをお乗せした。 <ルカによる福音書19章28-40節>

主イエスキリストの最後の一週を読んでいます。どの福音書もこれまでの出来事がまるで序章であるかのごとく、十字架までの一週をことさら詳細に残しています。当時の全世界で最大で最強の政治権力を誇る帝国と最高度に整った宗教体制が、一人のラビにこぞって敵対します。騒ぎがあっては困るという自己保身、宗教的指導者たちの妬み、暴利訴追への逆恨み…結局、巨大な帝国と強力な宗教は、いともたやすく力を行使し、まんまと主イエスを亡き者にすることに成功をおさめました。しかし、福音書の響きは、そんな地上で遂行された事実とは違うは調べを奏でています。最後の週、目を見張るような奇跡も派遣されるべき天の軍勢もクリスマスのようなみ使いのコーラスもなく、超自然的な出来事は何一つ起きませんでした。それでも、翻弄されているはずの主イエスひとりが起きている出来事のすべてを支配しているかのように記録してきます。自分を待ち受ける定めを知りつつも、顔をエルサレムに向け、十字架に向かいます。弟子たちにとっては、自分が師と崇めた人の磔刑は墓場まで持っていくべき黒歴史であり、屈辱のはずですが、復活後にこの出来事は神の御想い、よき知らせとして受け止められていきました。▲ルカ19章。今までように今回も歩いてエルサレムに向かうこともできたはずなのに、主イエスはロバに乗ることを望まれました。拒絶と苦難、疑心と殺気の場に赴くのに、平和の象徴である動物を選びました。この入城は、力のバランスを変えたのです。それは、信仰者の心の底にトンと残る憧憬です。大切な時に思い出すのです。



budou 2022年3月26日

「ぶどう園はだれのものに」

犬塚 契牧師

戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない。」彼らはこれを聞いて、「そんなことがあってはなりません」と言った。イエスは彼らを見つめてこう言われた。「それでは、こう書いてあるのは何の意味か。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』」 <ルカによる福音書20章9-19節>

 十字架前に語られた最後のたとえ話は、残酷で悲劇的な話でした。収穫の時になって、ぶどう園の収穫を納めさせるべく送られた僕て農夫たちは、次々に袋叩きにして追い返してしまいます。そして最後に主人の愛息子を送りますが、その息子も殺されてしまうのです。怒った主人は農夫たちに報復し、ぶどう園は他の農夫のものになるというたとえでした。地主と小作人の関係の難しさがあり、似たような事件が起きていたのでしょう。そしてまた、このたとえはイスラエルの歴史の要約と言われます。神が送り続けた預言者たちを受け入れることのなかった民と最後の預言者ヨハネの斬首。十字架を知る者にとっては、この愛息子は主イエスのことと改めて理解されたことでしょう。どうしようもないような残酷と悲劇に対して、人が出来ることは多くはありません。「そんなことがあってはなりません」と語るのが精一杯です。私達の日常はそんな言葉がころがっていますが、先の言葉を見つけることができません。9-16節までを何度も繰り返して生きています。しかし、十字架の主イエスは続けられました。「イエスは彼らを見つめて…」(17節)このまなざしからは、「主は振り向いてペトロを見つめられた。」(22:61)を思い出します。そして、「それでは、こう書いてあるのは…」と続けられ詩編118編を持ち出し、ありえない希望を引き出されました。プロが使えないと捨てた石が、家造りに欠かせない隅の親石になったと。主イエスはあまりの残酷に閉口した私達に先を続ける言葉があるのだと知りたいのです。




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