巻頭言
2022年3月


2022年3月6日

「もう一度、やさしい言葉で」 

犬塚 契牧師

イザヤの時代は荒野の時代でした。戦いに破れ果て、神殿は破壊され、王制は破綻し、リーダーや技術者は捕らわれ抑留されました。それでも残された人たちはかつての地主の土地を手に入れて家を建て、生活は継続され、宗教行事が許されもしました。生きてはいけたのです。ただ最も深く荒れたのはむしろ心でした。バビロンで繰り広げられる異教の神々たちの行列を横目にしながら、自分たちの信仰が過去の遺物に思え、主なる神の歴史の終焉を感じて虚無を覚え、疲れ果てたのです。例えようのない心の荒野がありました。しかし、そこに新たな慰めの希望が届きます。 「慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。 エルサレムの心に語りかけ彼女に呼びかけよ  苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。」 しかし、この預言者にこの慰めは慰めと響きませんでした。 「…呼びかけよ、と声は言う。わたしは言う、何と呼びかけたらよいのか、と。 肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。 草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい。」 何と呼びかけたらよいのかと言葉を失い、悩み果てた姿をこの預言者は虚飾なく晒(さら)しています。彼の心は、他でもない痛む民の心と共にありました。そして、ふじみキリスト教会の年間聖句の言葉へ続きます。 「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。」   イザヤ書40章6-8節  悩みぬかれた預言者の言葉は、そこにおいて深化して静かに拓かれ、心に語りかけるようなやさしい言葉を用いて伝えられるのです。私たちもあらためて「もう一度、やさしい言葉」を共にいただき、それぞれの場において膨らませ、伝えていきたいのです。



2022年3月13日

「生きている者と共に」

犬塚 契牧師

イエスは言われた。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしているのではないか。…死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の個所で、神がモーセにどう言われたか、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。あなたたちは大変な思い違いをしている。」       <マルコによる福音書12章18−27節>

「復活はないと言っているサドカイ派の人々が、イエスのところへ来て尋ねた」と12章「復活の問答」のエピソードは始まります。サドカイ派とは、ローマ帝国と共調する立場をとる祭司貴族階級の人々だったようです。当時、ローマ帝国の支配下にあって抑圧と困窮に生きる人々が、もはや復活後の世界にしか望めなかったものを、サドカイ派の人々は地上においてすでに手にしていました。故に彼らにとっては復活不要でした。そのことを申命記のモーセの教えから主イエスにぶつけます。夫が子もなく亡くなった場合、残された妻と夫の兄弟が結婚するという制度(レビラート婚)を提示し、それがもし7度続いたとして、復活後に誰の妻になるのかと問うたのです。復活なんてことがあれば、秩序がなくなってしまうではないか。想像するに、そんなところは、混乱だらけで、不幸せで、不合理な世界でしかないとサドカイ派は迫ったのです。そして、主イエスは、答えます。「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、そんな思い違いをしている」▲私の暮らす文化には、子孫を残す苦肉の策「レビラート婚」はないとしても、生きるための必死の知恵の限界やそこでもがく苦悩は至る所にあります。その中で生きています。そして、「人生なんてそんなものだ」との言葉がもたげるのを抑えきれません。正直に書けば、私は富裕層でも復活を否定する者でもないけれど、サドカイ派の人々が主イエスに突っかかった理由をどこか共有しています。だから「思い違いをしている」と2度も言われたことが心に残ります。きっと私は「大変な思い違い」をしているのでしょう。▲モーセが燃える柴の前で神に出会った時、アブラハム、イサク、ヤコブは数百年前の過去の人でした。彼らへの約束は、地上において不履行のまま時を経ています。このままウヤムヤでフェードアウトが世の常です。神にとっても人にとってもそれがよいでしょう。しかし、モーセに対して改めて神は宣言される。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神…」人間がとっくに鬼籍に入れ、過去の人だと忘れ、「人生なんてそんなものだ」と理解した出来事をもう一度神はあえて掘り起こされるのです。主イエスはそこから「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」と語られました。▲主イエスを引きずり下ろそうとする問いかけは、果てなく繰り返される神の力、再生の神を指し示すことになりました。主イエスの言葉を信じてみようと思います。▲体調崩しながら、晩年の病床を想像しました。恥ずかしくも「ごめんなさい」の繰り返しでした。しかし、最後の言葉は、自分で引き取らないで、やはり主イエスに預けてみたいと思うのです。



2022年3月20日

「裏切る者ととともに」

犬塚 契牧師

十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った。…人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。 <マルコによる福音書 14章10ー21節>

主イエスの弟子の中で、特に知られているのはユダだと思います。裏切った弟子として世界中で知られています。4つの福音書の中でも最初書かれたマルコによる福音書は、ユダが裏切った理由に特別な説明を加えていません。他の福音書ですと、マタイは銀貨に目がくらんだように書かれていますし、ルカとヨハネはサタンにその理由を見つけているようです。ただマルコは、それが神の必然であったかのように記すのです。▲この福音書が書かれたのが、十字架の出来事から40年近く経た70年頃だとすると神殿がローマ帝国によって破壊されたユダヤ戦争に重なります。そこでは、ローマとユダヤの熾烈を極めた戦いと無縁でいられぬ混乱を生きる人々がいました。2000年経た今、先月の24日以降、トップニュースは、ロシアのウクライナへの軍事侵攻についてです。そのこと以外にも、もうニュースにもならなくなった世界の叫喚を思います。ミャンマーの軍事クーデター、アルカーイダ一掃のためのアフガニスタン戦争と昨年の撤退、大量破壊兵器保持ゆえだったイラク戦争とその後のISの台頭。イスラエルに張り巡らされた高い壁と隔離されたパレスチナ自治区。今世紀最大の人道危機にあるシリアとレバノンの難民問題。自由が保障されない独裁下にある北朝鮮と内戦ともいわれるほど「生きる難しさ」を抱える日本の自殺者数…。2000年、それ以上前からきっと困難がいつもあるのです。マルコ福音書は、十字架までの苦難の道を「神の必然」「運命」のように刻んでいます。改めて読みながら、かつて大切な友人がメディアの偏向報道を受け、居ても立ってもいられず、先輩牧師に相談した時のことを思い出しています。その牧師は、普段の様子とは違って、怒りを受容するのでも、慰めの言葉をかけるのでもなく、一言だけでした。「それでも生きていかなきゃいけないからね」。▲それでも生きていかなければならない世界があるのでしょう。かつて、ナチス政権下で拘留されたボンヘッファーは獄中で、「神の前で、神と共に、神なしで生きる」と残しました。「それでも生きる世界」は、「それでも生きてよい世界」という希望の調べをどこか裏側としていないでしょうか。主イエスの十字架による贖罪に根性のごとくすがるしかない自らを思っています。



2022年3月27日

「心は燃えていても」

犬塚 契牧師

少し進んで行って地面にひれ伏し、できることなら、この苦しみの時が自分から過ぎ去るようにと祈り、こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」 <マルコによる福音書14章32-42節>

 逮捕前の直前、十字架刑の苦しみの前に主イエスが祈る場面です。「オリーブ油の絞り場」という意味の「ゲッセマネ」で、文字通り絞り出すように祈られています。できればこの苦しみから遠ざけてほしいと必死に願っています。主イエスよりも400年前に生きた古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、人々の恨みを買い死刑が宣告された時、牢番の配慮で鍵が開いていても逃亡もせず、「ただ生きるのでなく、善く生きる」と毒杯をあおったと知られています。他にも偉人たちの潔い死に様はあちこちから聞こえてきます。それに比べて何ゆえに…。また、十字架刑は残忍な方法ですが、主イエスよりも肉体的な苦しみをあった人たちもいたことでしょう。第二次大戦中のナチスや日本の細菌戦部隊の所業が浮かびます。想像を超える苦痛を与える実験をしていました。それらに比べて何ゆえに…。また、先に「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。(28節)」とあり、復活することを予告までしながら土壇場のジタバタと読めます。最初期の教会にはこの「ゲッセマネの祈り」の狼狽を好まない人たちもいたようです。事実、古代社会の知識人たちは、この主イエスの姿を嘲笑いました。また信仰者たちも思ったことでしょう。私たちの救い主は、慌てふためき、あまりに弱く見えやしないか。▲常々、主イエスは祈るときには一人で祈るように勧めていました。ある時は、弟子たちを船に乗せて遠ざけ、一人祈られることもありました。しかし、この晩はそばにいてほしいと頼まれるのです。離れずにいてほしい、できれば、神と二人にさせないでほしい。主イエスは知っています。祈りに応えられない神がいる。恐ろしいほど、沈黙に徹する神がいる。実際、神は何一つ返さず、無言で耐えているかのようです。「ゲッセマネの祈り」は、神と切り離される悲しみを知る人の祈りでした。神から見捨てられる真の人間の姿でした。そして、父なる神と人なる主イエスの間の果てしない断絶を表現し得る言葉を人間はもっていません。人が立ち得ぬ闇があり、立たなくてよいように主イエスが背負われた十字架がありま。この断絶を知るのは、おそらく決定的に大切なことなのだと最初のクリスチャンたちは理解して、嘲笑の的となり得た「ゲッセマネの祈り」を残して伝えました。神の知らぬ闇などどこにもないのです。




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