巻頭言
2020年3月


2020年3月1日

「信じるか」主イエスの迫り 

犬塚 契牧師

イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。  <ヨハネによる福音書11章17-27節>

マルタとマリアとラザロの兄弟姉妹。両親の存在は不明で、兄弟3人で助け合い暮らしていたのでしょう。ところが、ラザロが命に関わる病に倒れ、瀕死となり、それは15スタディオン離れた主イエスにも伝えられました。しかし、主イエスの動きは不可解です。一向に腰を上げず、その間にラザロは死に、べタニアに着いた時は、死後4日経っていました。当時は、3日までは蘇生の可能性を考えて希望を持っていたようですが、4日は決定的な死を意味していました。実に2.7キロの距離(小学校の通学路の距離)を4日もかかったのです。マルタは主イエスに会うや否や「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言葉に怒りを込めました。思わず手が出なかったのが不思議なくらいです。さらなる不思議は、この後、ラザロの墓の前で主イエスが、心揺さぶられて涙を流したことです。ならば、なぜもっと早くに支度をしなかったのでしょう。いや、さらに「あなたの兄弟は復活する」とも語っていました。これから起こる結末を知っている唯一の人が、なぜ悲しむ必要があるのでしょう。「どっきりカメラ」や「モニタリング」や「だまされた大賞」のプレートのように、満面の笑みで、これでどうだと四日分の涙を取り返してみせればよいのです。なぜ、涙を流したのか。主イエスの涙は、何の涙なのでしょう。▲奇跡とは、魔術でも、手品でも、ミラクルですらなく、むしろ、サインであり、しるしです。福音書の記者たちは、奇跡を控えめに、(半ば嫌々に?)書いていると思います。後代の人々の疑問を払拭するような丁寧な描写はいっさい省いています。だから私たちは水がワインに変わった方法も、パンが増えた様子も知りません。「しるし」は、刹那的な驚きでなく、神が心底望まれることの目印です。▲ならば、一連の「しるし」…遅延も、主イエスの涙も、ラザロのよみがえりも、何かを指し示しています。悲しみと慰めの間に、死と復活の間の隔たりに、すでにといまだの悶えに、涙が必要です。神には見えても、人には見えない時間があるのです。そこで流される涙を主イエスは無視されませんでした。そして、11章を境に、主イエス自身が十字架と墓に向けて、出発をします。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てに…」へ向けて。人となられた神の恐怖と悲しみがまた涙の理由でしょう。十字架の先の復活という最大の「しるし」まで、不思議の業は一切沈黙します。



2020年3月8日

「み足の跡をしたいて」

犬塚 契牧師

3節:イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、4節:食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。  <ヨハネ13章1-20節>

足を洗う…この行為は、同胞の奴隷に対しては、主人ですら、要求することができなかったようです。だから、上記、3,4節の始まりと終わりの意外さに驚いています。「すべてを御自分の手に」委ねられた人は、だいたい何をするものなのでしょう。8件目の別荘の建築や食べきれないほどの豪遊、プライベートジェットでの逃亡、神々との会食、世界の征服…いや、そんな例えなど不要で、私自身が、もし「支配」を手にしたら、手ぬぐいを取って、その晩、裏切る弟子たちの足を洗うだろうかと…。全力で回避したい。しかし、主イエスは、言われました。「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。」▲主の晩餐式、洗礼式については、キリスト教会は大切に守ってきました。議論を繰り返し、神学を深め、あるべき姿を今も求めています。しかし、同様に命じられた「足を洗う」ということについては、2000年間上手に蓋をしたままです。そして、その蓋はたまにしか開きません。他人事でなく、2020年を生きる私のことです。けれども、弟子たちもまた…▲足を洗われた夕食後、夜遅く弟子たちは、誰が一番エライかと始めてギクシャクしました(ルカ22章)。ふさわしい主イエスの応答が浮かびます。「てめぇの馬鹿さ加減にはなぁ。父ちゃん、情けなくて、涙が出てくらぁ。」(「あばれはっちゃく」1979-1985TV朝日)しかし、ルカ福音書は、こう記しています。「あなたがたは、わたしが種々の試練に遭ったとき、絶えずわたしと一緒に踏みとどまってくれた。だから、わたしの父がわたしに支配権をゆだねてくださったように、わたしもあなたがたにそれをゆだねる。」▲灰色を生きることのチカラをここに得たいのです。



2020年3月15日

「道、真理、命」

犬塚 契牧師

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。…こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」 <ヨハネによる福音書14章1-14節>

主イエスと弟子たちの最後の食事となるようです。ユダの離脱とペトロの離反の予告(13章)がありました。主イエス自身が間もなく世を去ると言われます。これまでついてきた弟子たちの期待と新しい国の夢、喜びと苦労はこのまま報わらずに解散となるのでしょうか。不安は広がります。先が見えません。主イエスは、しばしの別れ、天への希望、やがての再会を伝えていますが、果たして励ましの言葉はこれでふさわしいのでしょうか。この後の展開は、逮捕とスピード裁判、民衆の翻意、十字架刑へと続きます。弟子たちは「父の家の住む場所」の希望をなんとか握りしめて、十字架の後に続いたのではありません。並々ならぬ決意をしながら、みな散り散りに去っていきました。主イエスは、そんな出来事が起こることすべてを知っておられました。…で、なおも言われるのです。3節のケセン語訳で、「俺はまたも戻りかえってお前たちを迎えよう、皆でいっしょに暮らすのだ。」(山浦玄嗣 ガリラヤのイエシュー)▲神を信じること、主イエスを信じること、聖霊なる助け主を信じること。それは、点数をつけるのでも、試験紙の反応で見分けられるのでなく、その愛の交わりにいれられることの感謝なのだと思っています。晩餐の夜、不安を隠せないトマスとフィリポは、どの道を行くべきなのかと問います。柔道、書道、茶道、華道、武士道…みんな道があるのですから、当然の問いでした。しかし、主イエスの答えは不思議です。「わたしは道であり…」。道、そのものである主イエスの変わりなき招きを感謝し、ただ委ねて、お天気関係なく、ノー天気に生きる…。おぉ、そうありたい。この季節も守られますように。



2020年3月22日

「わたしはまことのぶどうの木」

犬塚 契牧師

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」(15:1) <ヨハネによる福音書15章1-11節>

「あなたがたはぶどうの枝である」(5節)と主は言われた。ぶどうの枝は、ほおっておくと、すぐに伸び放題になる。そこで、農夫は枝の手入れをして、栄養分を良い枝に集中させ、豊かな実を結ばせる。手入れそのものは枝にとっては、痛い事だが、それによって、本来のスッキリした姿になり、清められる。私たちは時折、試練や苦しみに遭うが、それは災いではなく、そこに、神の深い愛の計画が隠されている事に気付く。辛い痛みを枝だけが、味わうのではなく、何よりも木自身が痛んでいる。主イエスご自身が、私たち以上に苦しまれる事を、忘れてはならない。▲枝としての使命―豊かな実とは、愛の結実である。神と隣人を愛する事が、神に造られた人間の生かされる目的である。それゆえに、私たちは神の愛によって、小さな愛の交わりを持つ使命が託されている。▲しかし、他者をあるがままに愛する事は難しい。人間の愛はもろく、自己中心的であり、また変わりやすい一面があるからである。最期まで真実な愛を貫くためには、枝は幹から樹液を受けるように、神の無償の愛を絶え間なく、受ける事がどうしても必要である。▲「ぶどうの枝」はギリシア語では一単語であり、元来「裂く、割る」という動詞に由来している。私たちも様々な労苦によって、魂が引き裂かれ、割れる事があるが、それにより、広大な恵みの世界に、引き上げられるためである。枝は自分では、何かを行う必要は無く、木から養分を受けるだけで良いのである。主イエスに結びつく事が、勝利の秘訣である。▲「わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められて火に投げ入れられて焼かれてしまう」(6節) これは私たちへの警告である。このみ言に恐れおののく。しかし、もう一面を教えられる。それは、主は私たちの要らない「枝」の部分(罪、汚れ、失敗、過ち、恥、屈辱など)を切り取り、焼き尽くし、それをもって、人生に熱と暖かさを生んで下さる事である。その恵みを感謝する時、暖炉でパチパチと燃える音が、神への賛美に聞こえてくる気がしてくるのである。



2020年3月29日

「世は牙を向いて」

犬塚 契牧師

イエスは弟子たちと一緒に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれた。そこには園があり、…裏切ろうとしていたユダも、その場所を知っていた。…イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを捜しているのか」と言われた。彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。…。イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。  <ヨハネ18章1-11節>

宗教的、政治的中心地であったエルサレムの指導者たちの妬みによって、主イエスは、指名手配を受けていました。首に賞金がかかり、その夜の晩餐が最後になるのだと思っていました。弟子のユダが自分を引き渡すのにも気が付いていました。ならば、なぜいつもと同じ祈りの園にでかけたのでしょうか。神殿を降りて、谷を上がった「オリーブの絞り場」と呼ばれる園には、今でも樹齢1000年〜2000年のオリーブが育っているそうです。指紋鑑定、モンタージュ、DNA鑑定、防犯カメラがなかった時代は、証言がその人を特定するすべてでした。ユダはその証言者で、名指し役でした。600人がともしび、松明、剣をもって谷を越えてくるのが煌々とした明かりと重い足音をもって知ったと思います。震えあがる逮捕です。「だれを捜しているのか」。機転を利かせて、逆方向を指し、その隙に逃げるのが常套手段だと思います。「ナザレのイエスだ」とは、侮蔑的言い方でした。ナザレの田舎のラビが、のぼせ上ってエルサレムなんかに来るからこんなことになるのだという思いを兵士はそのまま口にしました。しかし、主イエスは答えられます。「わたしである」。この瞬間、案内役のユダの命は助かったのでしょう。ヨハネはその時に起きた不思議を書いています。「彼らは後ずさりして、地に倒れた」。容疑者の逮捕で、たいまつと剣で捕えにきた者たちが倒れていくのです。剣では倒せない権威というものがありました。この夜の神の子の自制によって、やはり世界の歴史は変わったのだと思います。パウロはこう書きました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」フィリピ2章




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