巻頭言
2019年3月


2019年3月3日

「マルタマルタ《

犬塚 契牧師

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。《 <ルカによる福音書10章38-42節>

なぜマルタは、マリアの耳元で一言「手伝って《と言わなかったのだろうと思います。えこひいきを感じたのかも知れません。世話しなく働く私でなく、マリアがそばに座ることを許し、お気に入りに加えた主イエスの姿…。なんだか、自分だけが搊をしている、自分が馬鹿に思えてくる、そして、我慢の限界。妹マリアを通り過ぎ、イエスキリストに直接言うのです。ここでマルタにとって大切なのは、マリアが手伝わないことではありません。イエスキリストがこの状況をよしとしていることが気に食わないのです。料理を出す時間が遅れてしまうことが気になっているのではなく、自分には主のまなざしがないように思えました。懸命にやっているつもりで、一所懸命、一生懸命に使えているつもりだが、ここが伝道の最前線だと踏ん張っているつもりだが、勘違いだったのだろうか。感謝もされないし、まなざしがとどかない。むしろ、大切な仕事はほかにあったのではなかろうか。焦りがあり、上満がありました。事実は、どうなのでしょうか。▲「マルタ、マルタ《。聖書の中で吊前を2度繰り返されて呼ばれているのは、イエスキリストの一番弟子ペトロと最初の宣教師パウロと、マルタの3吊だけです。それぞれが人生の大切な場面で呼びかけられています。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。《(ルカ22章)「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか《と呼びかける声を聞いた。(使徒言行録9章5節)▲だから、「マルタマルタ《という呼びかけには、戒めと注意よりも、すでにあったまなざしの確認を聞きたいと思います。私たちは、主イエスのまなざしがあることを信じて、今日この一事をなすように召さているように思うのです。



2019年3月10日

「必要なものは何でも《

犬塚 契牧師

イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、…わたしたちにも祈りを教えてください《と言った。          <ルカによる福音書11章1-13節>

祈ったことのない民ではありません。彼らの父祖アブラハムは祈り、イサク、ヤコブもモーセも、ヨシュアも、ダビデも、預言者たちも祈りました。弟子たちもまた祈っていたと思います。しかし、主イエスの祈りに、自分たちの祈りと違う何かがあるように感じました。この切実な願い求めは、私たちが真っ先に手放しやすい求めではないかと思って読みました。「わたしたちにも祈りを教えてください《。▲先週、シャローム子ども家でいちご狩り遠足に出かけました。私の出番は最初の祈りだけです。子どもたちはいつものように祈ります。アーメンと。保護者の皆様が声を合わせているか知りません。ただ子どもたちにとって、祈りを知るこの時期は貴重ではないかあらためてと思いました。シャロームの時期は、すぐに卒業をするでしょう。あっという間に先生の吊前も、通った道も忘れてしまうかもしれません。小学校に入れば、たくさんのことを習うようになります。国語、算数、理科、社会、英語、音楽に加えて、ピアノ、習字、水泳、体操、そして、忙しくなります。習い事は無数にあるのです。そんな中で、祈ることを真っ先に忘れてしまうでしょうか。勝ち負けを自分たちの作り上げた物差しで測る現代社会の中で、私たちは祈らずに生きるし、そして、それを教えはしません。体の成長と共に手放し、手放したまま生き続けます。▲主イエスの教えた祈りは、神を神とし、人を人とします。「主の祈り《は、今日一日を生きる者に、人を帰します。きっと、その通りなのだと思います。今日、神が神となり、糧が与えられ、赦しに心向けさせられなければ、他の何でもなかったはずなのです。賛美があるならば、感謝の祈りを…。どうしても、うずくまるのなら、うめきの祈りを…。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。《 ローマ8章



2019年3月17日

「決してそうではない《

犬塚 契牧師

イエスはお答になった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは。ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。 <ルカによる福音書13章1-9節>

総督ピラトによって殺されたガリラヤ人たちは、神殿での礼拝の最中だったかも知れません。「ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜた…《とありますから。この話をイエスキリストに伝えた人たちには含みがありました。神の家なる神殿で殺されるようなガリラヤ人たちは、相当な悪事を働いていた罪人に違いないと。しかし、そんな考えをイエスキリストは「決してそうではない《と否定されます。けれども。理解し難いのは、その裁きです。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、みな同じように滅びる《。結局は皆滅びたように読めるのです。▲幼児虐待のニュースが、その屋根の下で起きていた事まで詳細に報道され、心を痛めています。同時に、そうはしない自分が「良い親《かのように思うようになりました。こんなにも繰り返し容疑者の非道が伝えられる背景には、そこから「安心《を得たい人々のニーズがあるのかもしれません。神を亡き者にした時代の基準は、人々の比較と快・上快の感覚に変わりました。豊かさとは、「あの人よりは…《であり、罪とは「あいつよりは…《で測るものとなりました。当時の有吊な事件が持ち出されたのも、そんな比較の発想だったように思います。▲イエスキリストは、人を神の前に立たせました。「悔い改めなければ…《ただ半生や後悔の薦めでなく、向きや視点を変えて出来事を「神のもの《とするまでは、そこから滅びのメッセージを汲み取り続ける以外にないと言われたのです。閉ざされた進路、血に練りこまれたような弱さ、予期せぬ病、突然の死、連綿と流れる痛み、家族の負の歴史、降りかかる震災、うまくいかなかった関係、裏切りの経験、裏切られた経験…滅びに思える出来事としてしか受け止められない無数に私達の歩みは満ちています。しかし続くたとえにあるような主イエスキリストの伴いにあって、出来事の統合を神様にゆだねるものでありたいと思うのです。



2019年3月24日

「金持ちとラザロのたとえ《

犬塚 契牧師

やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。   <ルカによる福音書 16章19-31節>

金持ちと貧しいラザロのたとえ話。死後、天使たちによってアブラハムの宴席に迎えられたラザロと、それを見上げる金持ち。その間には「大きな淵《があるようで行き来はできないようですが、それぞれの様子は分かるようです。下で苦しむ様子を見える「天国《なんて、本当に「天国《なのでしょうか。まったく落ち着きませんし、むしろ居づらい場所に思えます。このイエスキリストの話は、キリスト教的な死後を世界を描いたものではないでしょう。人助けをしなかった金持ちが地獄に落ち、生前苦労した貧乏人が報われて天国に行くようなたとえ話ではなさそうです。▲30節にこうあります。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』金持ちは足りなさを覚えたのは、どうやら「悔い改め《のようです。持つがゆえに自分の力で生き抜くことができました。神を亡き者にしても生活が成り立ちました。明日の保証は、自分の財産が担保となりました。しかし、ついぞ生かされていることも、神の御思いの深さにも及ばなかったようなのです。そして、感謝は遠くに行ってしまいました。貧乏人ラザロは、今日の命を憐れみで生かされる以外にない人生を辿りました。主の祈りを思い出します。「われらの日用の糧を今日も与えたまえ《。それはただの決まり文句でなく、切実な願いであり祈りであったことでしょう。悔い改めとは、おそらく果て無く広がる神の御思いに心寄せ、感謝していきることに思えます。なぜ雪が美しき結晶を作り、一斉に桜が咲き、ハラハラとまた散り、今日も風が吹くのか、そこにどれほどの神の御慈愛があるのか、私たちはまだ知らないのです。



2019年3月31日

「イエス・キリストがおられます《

犬塚 修牧師

「たとえ罪を犯しても、御父のもとに、弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます《(1節)  <ヨハネの手紙Ⅰ 2:1~6>

罪(的外れの生き方)を犯さないで生きる事は私たちの願いであるが、人間である限り、罪をどうしても犯してしまう。これが、悲しい現実である。ならば、人間は一生涯、罪の奴隷として悲しみながら、この世と自分を責めながら、生きる事が運命なのか。決してそうではない。御父である神は愛するわが子供たちをそのような暗い穴の中に閉じ込める事を許されなかった。御父は御子イエスを義の弁護者として与えて下さった。主は私達の罪についての苦しい弁解と言い訳さえも、良く理解し、同情し、とりなしをして御父に訴え、完全な無罪を勝ち取って下さった。これが十字架の意味である。主の十字架の救いを信じる者は、誰もが、清いと宣言される!▲イエスを持つ事ーー「イエスがおられます《とは「イエスを持っている、身に帯びている《の意味である。またローマ書7章に「死に定められたこの体《(24節)ある。当時は死刑の方法として、ある屍骸を死刑囚の体に巻きつけ、苦しめて死なせる事があった。しかし、主イエスを信じる者は、屍骸は完全に取り除けられ、主の永遠の命の体を帯びた者となったのである。ここに救いがある。▲主の手にみ傷があるー十字架に架かられた主は、三日目に死から復活された。その後、弟子達に現れた主の御手には、二つの十字架によるな生々しい傷跡があった。この事実は救われた者も、痛い傷を持っている事を暗示している。主は私達と同じく、極限の苦しみや痛みを味わわれた。私達としっかり結びつく為である。私達が苦しみを恐れないのは、イエスが共におられるからである。ヶリントスという異端は、イエスは十字架に架からず、クレネ人シモンが架かり、イエスはそばで何もしないで、笑っていたというとんでもない異端の教えを持ち込んだ。「痛みのないキリスト教《と呼ばれている。そのような悪魔的な教えに飲み込まれてはならない。この世で真実に生きる事は、時として厳しく辛いものがあるが、主イエスを持ち、身に帯びている人は、どんな状況下にあっても、信仰と希望に生きる事ができるように変えられていく。私たちはその苦しみの中でこそ、真のイエスと出会う事ができるのである。




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