巻頭言
2018年3月


2018年3月4日

「神の御心に従って、残りの生涯を生きる 」

犬塚 契牧師

キリストは肉に苦しみをお受けになったのですから、あなたがたも同じ心構えで武装しなさい。肉に苦しみを受けた者は、罪とのかかわりを絶った者なのです。 それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。 かつてあなたがたは、異邦人が好むようなことを行い、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲、律法で禁じられている偶像礼拝などにふけっていたのですが、もうそれで十分です。 あの者たちは、もはやあなたがたがそのようなひどい乱行に加わらなくなったので、不審に思い、そしるのです。 彼らは、生きている者と死んだ者とを裁こうとしておられる方に、申し開きをしなければなりません。 死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。 何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。 不平を言わずにもてなし合いなさい。 あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。 語る者は、神の言葉を語るにふさわしく語りなさい。奉仕をする人は、神がお与えになった力に応じて奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。 <ペトロの手紙T 4章1-11節>

イエスキリストが受けられた肉の苦しみとは、何でしょうか。この時期、教会は、受難節を覚え、十字架、イースターへ向かいます。ヨハネ福音書は、主イエスは最後の時期に、「弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と記しています。裏切ると分かっている弟子たちの足も洗いました。すでに銀貨を手にしたユダが逆に狙われてしまわないようにでしょうか、引き渡しを拒むことをしませんでした。毒杯と知りつつも、あえて飲み干す…こんな言葉に表現することがほとんど意味をなさいような愛の出来事です。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」とは、十字架に架けられる前の晩の言葉ですが、十字架の絶叫の横に「友」は誰一人いませんでした。それでも十字架から降りはしませんでした。「十字架の奇跡とは、起きたことにあるのではなく、起きなかったことにある…」正確な言葉ではありませんが、昔に読みました。「キリストは肉に苦しみをお受けになった…」とは、そんな苦しみです。そして、キリスト者の務めがあります。「同じ心構えで武装しなさい」。永遠に愛するとは、甘美な香りと底なしやさしさに満ちた出来事でなく、永遠に痛み続けることです。胸のとげが抜けずにあることであり、抜かずにおくことです。使徒パウロは、願った伝道生涯を「とげ」ゆえに送れずにいました。しかし、時間をかけて、それこそが恵みであったことを知りました。もう欲望に絡みとられた生涯は、十分です。残りの生涯は、神の御心に従って、生きるのです。祈ることと、愛することに前のめりにそれぞれの場面と瞬間を生きる一年でありたいと願います。



2018年3月11日

「何を見ているのか」

犬塚 契牧師

イエスは神殿の境内で教えていたとき、こう言われた。「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか。ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。イエスは教えの中でこう言われた。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる。」イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」 <マルコによる福音書 12章35-44節>

ユダヤの文化は、生活費のすべてを捧げたこのやもめが餓死して亡くなるようなことを許さなかったと思います。旧約聖書には、孤児、やもめを支える勧めがされ、生活保障制度の代わりとして機能していました。貧しいやもめを助けなかった冷酷な町という不名誉な称号は、町の誰もが避けたいと考えたことでしょう。それでも、当事者にとって…このやもめの「助けられて生きる」という人生の有り様は、そんなに簡単な決断でも祈りでもないように思えます。むしろ、常人が願うところの真逆にあります。「生活費」とは、「人生」とも言い換えることができる言葉で、彼女は人生を神の前に預けたのだと思います。やもめになった経緯は分かりません。それ以後は、貧しさを知る生活が続いたようです。最後のなけなしの金で買った馬券が大当たりして、人生が変わった話は聖書に出てきません。この生活費・人生を神に預けた人の信仰をイエスキリストが見ておられたことを記しています。▲私は、見栄っ張りだから、どうにか生きられるように、与えられたものが多くあります。いや、むしろ、どこからか奪ってきたのかも知れません。高くから見るための座布団か、傷つかないための塀か…感謝と共に恥ずかしさを思います。何で身を覆っているだろうかと省みています。イエスキリストは、十字架の道を先に行かれています。



2018年3月18日

「孤独の詩を歌う」

犬塚 契牧師

闇の中で驚くべき御業が/忘却の地で恵みの御業が/告げ知らされたりするでしょうか。主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。主よ、なぜわたしの魂を突き放し/なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています。あなたの憤りがわたしを圧倒し/あなたを恐れてわたしは滅びます。それは大水のように/絶え間なくわたしの周りに渦巻き/いっせいに襲いかかります。愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです。 <詩編88編13-19節>

嘆きから始まる詩編の詩のほとんどは、最後は賛美で終わっています。しかし、詩編88編においては、最後まで嘆きで終わっています。この詩人は、病があり、死が間近に迫り、友人たちが離れ、神にも見放されていると感じていました。絶望の淵に生きるそのままを祈りとしました。1965年キューブラーロス助教授は、シカゴ大学で死を迎える人たちをベッドのままに教室に招いて話を聞く授業を行いました。終末期医療の始まりでした。詩編88編は、絶望の中にいる人に真横でその祈りを聞いている気になります。聖書にこんな詩が収められていることは、私たちにとってつまずきでしょうか、それとも慰めになるでしょうか。▲2011年3月11日とそれ以降のしばらくの言葉を失った時期を思い出します。今や再び言葉を取り戻したわけではありません。警報の画面が消え、生活が戻り、なんだか落ち着いた気になっています。また、経験によって新しい言葉を得たわけでもない気がします。もし、予想されているように南海トラフによって地震と津波、そして、放射能汚染が広がれば、もう一度繰り返して絶句すると思います。いや、度々にそんな孤独の詩を私たちは抱えて生きています。日々に88編が傍らに流れているかも知れません。しかし、神は人の闇や絶望を無視なさいません。むしろ、その闇や絶望はそこをも隠れ家となさる神(詩編18:12)との出会いの場と心知る者でありたいのです。



2018年3月25日

「私を強めてくださる方のお陰で」

犬塚 修牧師

「わたしは自分が置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(11節) <フィリピ4章10〜14節>

現在、自らが直面している状況が最悪と思っても、主がそこに置かれたと悟るならば、神経症的な不安定な生き方を卒業する事ができる。そして、心から悔い改め、主の救いを待ち望む人となる。この「満足すること」はパウロが、一生を賭けて学んだ人生の真理である。もし、私達は現状に満足せず、不平や不満や愚痴、さらに恐れとおののき、不安感に囚われるならば、歩みは絶望となり、重い吐息を吐く人生となろう。▼この「満足」は3点で表される。(1) イエスの中に生きること…家の外がマイナス30度の酷寒であっても、家の中には暖かいストーブがあれば、私達は凍死せず、快適に過ごすことができる。そのように、私達の第一に心がける決断は、イエスの中に住む事、つまり主を命懸けで信じ続けて生きることである。パウロにとって、主は恵みに満ちた赦しと愛の神ご自身であった。「キリストのお陰で」は「キリストの中で」が原意である。彼は断じて主から、一歩も外に出ようとせず、その中に留まった人であった。(2) 循環の法則に生きること…現実を正しく受け入れられない主な理由は、断絶の思想にあると言えよう。つまり、二つのものを切り離し、互いに無関係と見なすのである。たとえば、「人は持っているのに、自分は持っていない」と思い込むのは、自分の中で、主の愛を疑い、心が分裂しているからである。しかし、パウロはすべてのものは根底でつながっていると見なしている。大きな悲しみは、歓喜の未来をもたらすものである。「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで、あらゆる悪口を浴びせられる時、あなた方は幸いである。喜びなさい。……天には大きな喜びがある」(マタイ5:11〜12)と主は言われた。このように、天と地は循環しているのである。また「生きる事はキリスト、死ぬ事は益」(1:2節)ともある。ここでも生と死は、主にあって循環し、同じような価値とされている。(3) 広い心で生きること…「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。…いついかなる場合も、対処する秘訣を授かっています」(12節) 主を信じる人は狭い考え方、自己中心的生き方から解放される。すべてを支配する神に任せ、寛大さを身に付け、流れる水のように、自由、かつ柔軟な考え方を実践する人となりたいものである。




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