巻頭言
2017年3月


2017年3月5日

「岩のかけらを生きる」

犬塚 契牧師

イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。 <マタイによる福音書16章>

弟子たちにとって、人々がイエスキリストについてどう噂しているのかを報告するのはたやすいことでした。巷で聞いたその報告には、さしたる重さも言い難さもありません。彼らは、そのままを言い合いました。きっと弟子たちは、多弁です…「こんなことを聞いたよ…洗礼者ヨハネとか…エリヤとか」、「いや、私は、エレミヤだと言っている人と会った」とか「預言者」とか…。しかし、イエスキリストの質問が続きます。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 それでは…しばしの沈黙があったでしょうか。みなが下を向きます。そこで、年長者ペトロが、いつものように口火を切りました。「あなたはメシア、生ける神の子です」。ペトロの答えは、このフィリピカイザリヤという異教の地において勇気ある言葉であり、何よりもふさわしいものでした。しかし、ペトロが素晴らしかったのではないと続けて書かれています。イエスキリストは言われました。そのことを現したのは天の父だと。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」ここで、つけられた名ペトロ(岩)とは小石の意であり、続く「この岩」とは、主鉱石、巨石を指しています。知らされることがあります。ペトロの告白の強さに教会が建てられ、それが盤石へとつながるのでありません。告白に導く父の愛こそ信頼にたるものです。陰府の力も対抗できない屈強な告白が褒められているのではありません。大きな「岩」から取られたひとかけら故、その関係故に教会があるのです。ペトロは、この出来事のすぐに後に、イエスを諫めようとして、「さがれ、サタン」と叱られるということが起きます。さらに恐れを覚えて、湖に沈みもしました。十字架の前には、主イエスを3度否定するような歩みがあります。なのに、神が選ばれた岩のかけらゆえに、それは守られるのです。ならば、わたしたちにも希望があるではありませんか。 


2017年3月12日

「「お前も憐れんでやるべきではなかったか」

犬塚 契牧師

家来はひれ伏し、『どうか待ってください。きっと全部お返しします』としきりに願った。その家来の主君は憐れに思って、彼を赦し、その借金を帳消しにしてやった。  <マタイによる福音書18章>   

  人と人との関係のあり方を主イエスが話されている時、年長者ペトロの頭に疑問が浮かび、そのままを彼は口にしました。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」ペトロの胸張った数字は、すでに人間の限界を超えています。いったい誰が同じ過ちを7回赦すことができるでしょうか。3回、約束を踏みにじられたら、4回目はないのが常です。仏の顔も3度までです。しかし、主イエスは絶望的な数字を答えられました。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」赦すことに限界は設けてはならないと言われるのです。そして、さらに残念なことに、この例えは、こう閉められています。「あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」もう、脅しにしか聞こえず、布団をカブって読むような箇所です。私は、好まないところでした。▲6000万日、16万年分の日当を赦された家来が、100日分の仲間の借金を赦せなかった例えを主イエスは語られました。あり得ないことです。きっと、家来自身は、王から赦されたとは思っていなかったのでしょう。自分の命乞いによって、王をまんまと騙せたと理解し、王を数字の分からないバカだと思ったのでしょう。自分はちゃんと計算し、同じバカにはならないと決めたのだと思います。赦しを知らないのです。心を掘ってみるならば、私は、無関心やあきらめ、断絶を「赦し」と理解しています。人間の世界では、それが精いっぱいなのです。しかし、神の赦しは、関係の継続であることを知らされます。この一日も早く切り捨てないと国が危ない家来との関係の継続を王は望まれました。王とは神のことでしょう。神が本気で関係の継続を「私」と迫るなど、やはり、どうかしていると思っています。そこには、「信仰」が必要です。神は愚かなのではないでしょうか。Tコリント1章が浮かびます。「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」



2017年3月19日

「人の喜び、神の渇き」

犬塚 契牧師

人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。 <マルコによる福音書7章>  

 耳が聞こえず、イエスキリストを知る術のない人が手を引かれて連れて来られました。彼には何が始まろうとしているのか分からなかったと思います。巷のうわさから遠いところを生きていました。主イエスは彼を群衆から離して、この一人と関わることにしました。導きも招きも慰めも、人それぞれにある神のオーダーメイドだと知ります。彼への癒しは指をパチンと鳴らして終わるものではありませんでした。彼は、自分の耳に触れられて、目の前の人が耳に関心があるのだと気づいたでしょう。そして、唾をつけられることによって癒しがあるのかも知れないと思い始めます。▲「天を仰いで…」五千人の給食場面と十字架に架けられる前の晩、そして、この場面で、主イエスは天を仰いで祈ります。人が癒えるとは魔術ではなく、神の心の確認の場です。「深く息をつき…」同じ言葉がうめきと訳されます。彼の生きてきた道への共感でしょうか、彼のこころの有り様への共振でしょうか。天を仰いで、うめくとは、私たちの日常であることも感じます。その後の言葉は、イエスキリストのみに語ることができるものでした。「エッファタ」。ギリシャ語に訳して記したのでなく、主イエスの肉声そのままが残りました。この「開け」の一言に、天地創造の「光あれ」の響きを信仰者たちは聞いてきました。マルコ7章に、多くの説教者たちは、救い主到来を預言したイザヤ書35章の成就に触れます。「荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ/砂漠よ、喜び、花を咲かせよ/野ばらの花を一面に咲かせよ。…そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。」▲春の花が咲いています。今日も神はエッファタと言われます。マルコは、「天を仰ぐこと」も「深く息をつくこと」を一回限りの過去形として記しました。しかし、『「エッファタ」と言われた』は、現在形としました。つまりは、主イエスは、今日も、今も言われます。開けと。主は私たちを愛される者へと開いてくださいます。主は私たちを愛する者へと開いてくださいまniそのつもりです。それはうめきを覚える私たちの希望です。 



2017年3月26日

「真理と愛の内を歩く」

犬塚 修牧師

「私はあなた方を真に愛しています」ヨハネの手紙U1節   

 「真に」は「真理において」という意味である。「真理」は「隠されたものがあらわになること、また、真実、誠実、本当のこと、アァメン、ありのまま」とも訳することが出来る。究極的には、真理はイエスキリストの事である。「わたしは道であり、真理であり、命です」(ヨハネ14:6) とイエスは言われた。 神は真理をもって、私達を選び、愛し、慈しんでおられる。神の選びは、真理と愛に基づく特別なもの、永遠的なものである。「真理は永遠に私達と共にあります」(2節)「あります」は未来形なので、たとえ、今が闇の時代であっても、絶望、失望、落胆をしないで、復活の命を信じていく事が大切である。神の真理に生きる人は、いかなる厳しい状況下にあっても、完全な平安を失わないで、たくましく生きる事ができるようになる。主イエスキリストは、十字架という最も苦しい極限の状態の中で、最期に「父よ、私の霊を御手にゆだねます」と祈られた。これは、イスラエルにおいて、子供が就寝時に「おやすみなさい」という言葉であったと言われている。主は一番辛い局面でも、このように幼子のように祈り、一切を御父のみ手にゆだねられた。ゆえに私達も、このような平安に満ちた心で、日々を生き抜きたいものである。▼「愛に歩むことです」(6節)すべてを神に任せて生きようと決意した人は、愛に生きようとする。「愛」としは「非寛容、裁きの心、中傷する」生活習慣からの脱出、また分離である。人間は誰もが欠点をもっている。相手の失敗や欠陥を責める事は容易である。しかし、それでは、愛のない冷たい関係となる。互いに赦し合い、支え合い、労わり合って生きる事でキリストに結ばれた人たちの交わりである。自分がいかに主に愛されているかを悟った人は、相手にも優しく、愛して交わるようになる。▼「だれであろうと、キリストの教えを越えて、これにとどまらない者は、神に結ばれていません」(9節) 「超えて」は「前に進む」事である。主イエスの前に進むとは、主の命令を軽んじ、自分の思うがままに歩む事である これが異端である。しかし、もし、私達が同じようにふるまうならば、それは恐ろしい。「結ばれる」は「持つ」事である。真理にとどまらない者は、主イエスを持っていない。私は主と無関係であり、主と離れて生きている事になる。決してそのような心となってはならない。主イエスの言葉の中にとどまる事である。主と心を一つとなる人は,最も幸せな人とよばれるであろう。 




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