巻頭言
2016年3月


2016年3月6日

「神の子として…生きる」

犬塚 契牧師

 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。            <エフェソの信徒への手紙1章4-5節>

 世界が、はやりの熱病にでもかかったように報復への報復が繰り返され、愛が冷えた時代を生きています。後代の人々は、二つのビルの崩壊から始まった今世紀前半のしばらくを「正気であった」とは評しないでしょう。そんな時代の渦中を生きる教会は、「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…」と思い起こす必要を感じます。パウロは、この言葉をエフェソの教会に宛てた手紙に、いつもの挨拶もろくに加えず、書き始めました。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して…」という言葉の前で、心を上に向けたいと思います。そして、内に働きかける神へと向けたいと思います。頭において、心において、霊において、聞きたいと願います。かつての航海を続ける船が闇夜の海原に揺れる中、天上の星を見て、自分たちの位置を確認したような忍耐の歩みが続くでしょうか。み言葉において、同じ作業を私たちも繰り返します。「天地創造の前…」に神様が切に願い、心に思われたのは、わたしたちを子にしたいということでした。「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」とある通りです。キリストの受肉、生涯、十字架、死と復活、昇天を通して、その違わない約束の実現をみます。年間標語はこのところから「神の子として…生きる」とさせていただきました。「神の子として…」の後は、どんな言葉であってもよいと考えています。それぞれの生きる場面においてふさわしいあり方、言葉があると思います。神の子として…喜ぶ、…仕える、…歌う、…悩む、…踊る、…愛する…、考える、…葛藤する、…祈る、などなどです。総じて、「…生きる」といたしました。  (定期総会:巻頭言より)



2016年3月13日

「神の子として…生きる」

犬塚 契牧師

 「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」  <ヨハネによる福音書16章>

 ヨハネの本当に伝えたかったことのすべては16章にあるのではないかとまで言われます。弟子たちを襲う苦難、イエスキリスト御自身の死、訪れる深い悲しみ、その後の聖霊の派遣、喜びへと変わる約束…。弟子たちの心はどんなどんなにか揺れ動いただろうと思います。すべては理解できなかったでしょう。それでも、イエスキリストがはっきりと「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」と言われたので、確かに分かったことがあります。「…今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」確かにここにもこの福音書の一つの帰結をみます。当時、迫害下のクリスチャンたちの信仰の言葉でもあったでしょう。イエスキリストは続けて伝えます。弟子たちのさらなる裏切りと、自分の孤独をです。それでも、「わたしはひとりではない」と語られました。▲裏切る弟子たちを責めたいのではありません。平安を与えたいのです。イエスキリストが通られた「信仰の暗闇」、十字架の死、そして復活は、人の経験するあらゆる苦難にも希望があることを明らかにしました。イースターから眺めるならば、十字架の日の神の不在は、神の臨在の日となりました。悲しみの内、裏切りの中、死へ続く道において先に行かれるイエスキリストがおられます。「わたしは既に世を捨てている」ならば、生き得ない私が残されたと思います。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」。そう、語られたのです。



2016年3月20日

「歪みの昇華」

犬塚 契牧師

 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。       <マルコによる福音書5章>

 イエスキリスト一行が荒れる湖を渡った先に待っていたのは、墓場で暮らす一人の悪霊つきの人でした。この人に対するマルコの描写は、詳細です。鎖をもってしてもどうにも抑制が効かず、人と人との間に生きれなくなった彼を、町の人は人間として見なしていなかったかも知れません。心ある人の運ぶわずかな食料が最低限、命をつないでいたのでしょう。数千の軍団を意味する「レギオン」を名乗る彼の内面も外面も、すでに手を付けられない混乱があったことと思います。この箇所を読むと、藤木正三牧師の断想を思い出します。「たとえば自意識過剰のような性格の歪みは、人も不愉快でありますし、自分も苦しいものです。直せるものなら直すに越したことはありませんが、運命的とも思えるほどにそれに傷つき、直し得ない人もいます。その時、それを担い、伴う苦しみに耐えて、人生を常人が及びもつかぬほどに深く見通す人がいます。彼は居直っているのではないのです。歪んでいるとはいえ、たった一回きりの人生を大切にしているのです。この人生愛において、歪みは昇華して、永遠をのぞきうる窓になるのでしょうか。性格に限らず、なべて歪みを直すべきものとしか見ないのは、謬見であります。」▲「歪み」が昇華することなんてことがあるのでしょうか。もし、あるとしたら、なんだか慰められる出来事です。レギオンがイエス一行に助けを求めたのではありません。むしろ、彼は「かまわないでくれ」と言います。だから、思うのです。湖の向こう、異邦人の地、街はずれの墓場、硬い心に届く神の御手が、どうして私自身の歪みは触れないと言い切れるでしょうか。イエスキリストは言われました。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」



2016年3月27日

「キリスト者の道」

犬塚 修牧師

 「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。どうか平和の神ご自身があなた方を全く聖なるものにしてくださいますように」  <第一テサロニケ5章16〜29節>

 神はご自身に従う神の子に対して、すばらしい恵みを備えられる。恵みに応えて、私たちも主に喜ばれる道を進みたいものである。それは聖なる者となって歩む道である。「聖」は人間離れした超人、聖人君子になる事では無く、肉的なものからの分離である。忍耐力をもって悪から遠ざかる事である。この悪は「思い煩い、悩み」を含む言葉である。失敗に悶々として、絶えず自分を責める事は信仰を無力化してしまう。また悪は「欲望」と深く結び付いている。「これくらいは大した事ではない。すぐ止められる」という自己過信の考え方が、恐ろしい結果を招く。▼「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんな事でも感謝しなさい。」(16〜18節)は人生観や道徳訓ではない。私たちは神の命令を完全に守る事はできない。実行できるためには聖霊の力と助けによるしかない。またイエス・キリストの贖いを信じる信仰に立つ事である。「主は私たちのために死なれました」(5:10)とある。主は十字架にかかって死に、ご自身を信じる者を「新しい恵みの世界に」移し替えられた!。「御父は私たちを闇の世界から、その愛する御子の支配下に移して下さいました」(コロサイ1:13) とある通りである。このみ言葉こそが私たちの絶えざる喜びと祈りと感謝の源に他ならない。23節の「主の守り」は「強奪する」という強い意味があるから、主は贖いによって私たちを闇の支配から強奪して、恵みとあわれみの世界に移して下さったのである。喜びは、主のあわれみを確信する事から生まれる。▼「非の打ちどころのない者とされる」とあるが、理想的で完全な人間は存在しない。むしろ私たちは罪深い。にもかかわらず、その罪を赦し「あなたは清い」と宣言された。従って「自 分はダメだ、すべて絶望だ」と失望したり、自信を失ってはならない。むしろ 「聖なる者よ」と呼ばれる主の愛を信じ続ける事である。▼ 私たちの心を失意 と落胆の沼に引きずり込む悪の力から、できる限り遠ざかろう。サタンの誘惑す る力は強い。信仰によって勝つためには、肉の力に依存せず、主の十字架の愛を 信じて、ひたすら従う時、初めて勝利を得る事ができるであろう。




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