巻頭言
2015年3月


2015年3月1日

「幸せな者と呼ぶ」

犬塚 契牧師

 諸国の民は皆、あなたたちを幸せな者と呼ぶ。あなたたちが喜びの国となるからだと万軍の主は言われる。           マラキ書3章12節 

 「あなたの心の中に、神に明け渡していないような部屋はないだろうか」と20年近く前に読みました。言われれば心に小部屋がいくつも浮かび、なんだかしっかりと鍵がかかっているようにも思えました。けれども、取り繕えないような自分の悲惨を知らされる中で、神も知らないような闇や神の手が届かないような壁やおよばないような深みもないのだと痛みと恵みのうちに知るようになりました。それは、完全にではありません。それでも少なくともそこにをも恵みを見出してよいのだと希望をいただくようになりました。私たちが世界のどこに置かれようと、どこを通されようと、何を見ようと、神はそのところからをも、自分を現わすこと、示すことのできる方であります。神であるイエスキリストが人として、地を生きられて、神は人間であるということがどんなであるのかを、体で知ったのです。だから、私たちの歩みにおいて、どの場面を生きたとしても共感できる神です。「それ…わかるよ」と言う権利を神はお持ちです。十字架から救いは始まると神学校では教えられました。十字架による罪の赦しの宣言から始まる福音があります。しかし、救いは受肉からはじまっているのです。▲マラキ書3章。2015年度のふじみキリスト教会の年間聖句です。捕囚からの奇跡的解放とかつての繁栄を期待しての神殿建築…しかし、帰還ブーム・建築ブームは過ぎ、半世紀を超えても状況は変わりませんでした。次第に、いい加減な礼拝がされるようになります。描いたような世界が広がらなかった時、彼らが悲惨を生きる時、神が不在に思え、礼拝は不要となりました。しかし、預言者マラキを通して、神はもう一度礼拝に招きます。その裂け目こそ、破れこそ、礼拝の場にふさわしいのだと。イエスキリストの伴いをいただくその場には、「幸せな者」と呼ばれる神のみ声が響きます。底知れない―希望―がある場です。



2015年3月8日

「あれ?」

犬塚 契牧師

 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。             ルカによる福音書16章1−9節 

 弟子たちに向けた「ある管理人」の例え話。この管理人は主人の財産を無駄に使い、それが明るみに出て、職を追われることになりました。そこで、彼は主人に借りのある人たちの借財を減らすことで、恩を売り、首になっても生きていける手はずを整えます。そのことを知った主人は、怒るどころか、ほめたという不思議な例え話。「あれ?どうして?」ルカ福音書の難問中の難問です。▲普段、動機が純粋ならば、事は上手く運ぶだろうと考えています。素直であれば、それに免じて、天の神さんが微調整してくれると。腹割れば、わかってもらえないことなどないのだろうと。また、献金をしっかりしていれば、神さんが老後を支え、飢えることはないだろうと。ちょー便利で、なんでも入れられる箱のように神様を理解しています。それは、なんだか「信仰」よりも「放棄」に近い気がしています。また、そんな神さんが期待に添わず、不在に思えるような時でも、そう致命傷にならないのは、市販の絆創膏が豊富だからなのでしょうか。ならば、信仰生活とは何かと自問しています。▲弟子たちに語られた例えです。彼らは、親も兄弟も職も商売道具もすべてを捨てて、イエスキリストに従いました。多少の自負もあっただろうと思います。金から解放された者であり、他人が奴隷に映りもしたでしょう。いつの間にか足が地から浮き、汚れない空中戦を生きることに繋がっていたのかも知れません。物事における「信仰者」の反応が、「敬遠」か「埋没」の両極に振れやすいものだと感じています。この例えから、「人生、いろいろ、多少、汚れ仕事もあるものです」と読みたいのではありません。焦点は、どこまでも足を洗われる主イエスご自身の姿です。私達の生きている場がどんなかをご存じの主の前に、生身を生きるように促されます。



2015年3月15日

「笑笑」

犬塚 契牧師

 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか。…」 創世記 18章12−14節 

 随分と、随分と、随分と、傷ついたサラがいます。「随分」の中に、カナン地方に導かれてからの25年の時が含まれています。「随分」の中に、夫にのみ語られる神のビジョンへの憧れと、一方、妻である自分の現実との乖離が含まれています。「随分」の中に、妻としての戦力外通告が含まれ、女奴隷ハガルに自分の役割を譲る苦渋が含まれ、奴隷の傲慢さへの押さえきれない嫉妬が含まれています。やっぱり、随分と傷ついてきました。「…来年の今ごろ、…あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」聞いてきた約束に初めて日付が入ったして、余りに突然で、どうして小躍りできたでしょうか。サラはひそかに笑って自分の心を守ったように思えます。大きな約束の実現を、再び信じて、叶わなかった時の衝撃を「ひそかなる笑い」という逃げ道なしに受け止めることができなかったのかも知れません。この笑ったサラの姿を、責める資格はありません。「自分は年をとり」「楽しみがあるはずもなし」…サラが使った言葉は、露骨なものでした。それぞれ、「擦り切れた布」(ぼろ雑巾?)、「性的な快楽」の意味です。実際には、さらに多くの言葉が浮かんだことでしょう。私たちの浮かぶ言葉もまた、悲しみの表れが露骨となることもあるかと思います。しかし、幸いなことに湧き出る露骨を超えて、真に傷んでいる部分にのみ、まなざしを向けられる神の姿があることを知ります。ひとつひとつの言葉を拾われ、釈明を求められたら、みじめに押し黙る以外にありません。しかし、感謝にも、神は泥のような露骨の表層を貫いて、「主に不可能なことがあろうか」と新しい言葉をもたらされるのです。その主の力によって、サラの「笑い」は、「真の笑い」へと変えられるのです。



2015年3月22日

「心の王国」

犬塚 修牧師

 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」(21節) ルカ17:11-21 

 重い皮膚病に冒されていた10人の人達は、イエス様に必死で叫んだ。主以外に救いの道は有りえないと思い定めていた。「自分の悲惨を知らずして、 神を知る者は傲慢になる。神を知らずして自分の悲惨を知るものは絶望する」(パスカル)とあるが、彼等は己の悲惨さをありのままに受け止めてい た。▲主は彼らに「祭司の所に行きなさい」と命じられた。彼らはその言葉を受け取って進んで行った。今後どうなるかに関して、明確には知る事もな くひたすら従った。そのプロセスの中で救いが起こった。信仰は決断と行動である。主の言葉に従う途中で、癒しは起こった。「途中」は含蓄に富む言 葉である。信仰と不信、喜びと心配、確信と疑いという矛盾する心のままで主に対して従順であり続けた事が祝福をもたらした。祭司の所に到着した結 果として、清められたのではなく、従い続けるプロセスが大事である。▲しかし、10人の内、1人のサマリヤ人のみが主に感謝を捧げるために戻っ た。人間は自分中心にものを考えてしまう。自分の難病が癒された事で、自己満足してしまい、癒し主の元に帰り、感謝に満ちて礼拝を捧げて生きる人 は一人しかいなかった。私達がこの世に誕生し、生かされているのは、神を賛美し、真心から礼拝して生きる為である。ここに人間としての使命と幸福 がある。だが、多くの場合そうできないのは、自分の都合の事で頭が一杯となっているからである。また、私達は「見える」ものに心を奪われる事が多 い。あの場所に行ったら、自分が求めている幸福を得られると思い込む。しかし、そうはならない。夢のような桃源郷は存在しなのである。この世に ユートピアは無いのだから、過大な期待を持つべきではない。神の国(天国、支配)は目に見える現象世界ではなく、見えない私達の心の世界に在る。神に感謝し、喜び、礼拝の生活を続ける事、また主を心の王座に置く事が最大の喜びである。▲この人に「あなたの信仰があなたを救った」と主は語ら れたが、現在完了形の動詞が用いられている。これは以前に芽生えた信仰を主は受け入れ、今日に至るまで長く彼を見守っておられた事を意味している。心の悲しみや苦しみを理解し「良くがんばって生きていたね」と慰めて下さる。ここに私達の心の解放がある。



2015年3月29日

「そのそばに」

犬塚 契牧師

 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ… <マルコ3章13−19節> 

 マルコは書きませんでしたが、ルカは、弟子たち12人の選抜にイエスキリストが一晩中祈って決めたことを記しています(ルカ6章12−13節)。マルコは、その選出の判定基準を書いていますが、それは実に端的です。「…これと思う人々…」。実績、経験、財力、能力…が書いていません。その選びの理由は、人間側にあるのでなく、神側の一方的な招きであり、恵みなのです。「教会」に当たるギリシャ語はエクレシアであり、「召しだされた者」の集まりです。集まりたいから、集まったわけでなく、神の呼びかけがあっての礼拝者です。それは光栄なことであり、望外の喜びです。そして、共に礼拝も捧げる、前後左右のひとりひとりもまた招かれているのだと神の思いの深さを想像したいと思います。不思議な恵みです。▲イエスキリストは、当然「宣教」のために弟子たちを選びました。しかし、その前に「自分のそばに置くため」と書かれています。その関係をキリスト自身が望まれました。彼らがそれに相応しかったからではありません。筆頭に登場するシモンは、「ペトロ=岩」とあだ名がついていますが、後のエピソードを読むと名が体を表していたわけではなかったようです。ヤコブとヨハネは、「ボアネルゲス=雷の子」と呼ばれました。よっぽど短気だったのでしょうか。またローマの手下であった徴税人と武力を使ってでもローマからの独立を願う熱心党員、政治的には両極の二人も加わりました。タダイやバルトロマイが何をしたのか思い出せません。この箇所以外には、登場しないからです。トマスは疑い、ユダは裏切りました。▲任命責任…。大臣の不祥事のたびに聞くようになりました。イエスキリストに聞いてみたい思いがあります。「ペトロは、裏切りましたね。人選ミスだったでしょうか?」。問いに静かに答えられる姿が浮かびます。「いいや」。「では、バルトロマイ?誰でしょう。期待外れでしたか?」「…いいや」。そのように一人一人について聞いたとして、一番最後に恐る恐る自分の名前を口にしてみたとして…。▲「いさおなき我を」(讃美歌458)




TOP