巻頭言
2014年3月


2014年3月2日

「祝福の道へ戻る」

犬塚 契牧師

 2014年度年間聖句と年間標語

 2014年度の年間聖句は、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」(コリントの信徒への手紙T 15章10節)を選びました。一年を通じて、恵みを知ることに努めたいと思います。教会が世界に誕生して以来、教会は律法主義と闘ってきました。人の生身から離れてあるべき姿の強調や見えざる強制がありました。裁きを神のものとせず自分のものとする越権があり、神のまなざしを無視して比較を持ち込む傲慢がありました。…それらは、教会のいのちを奪うことへと繋がります。律法主義からの救いなど、果たして可能なのでしょうか。ある日の突然のウルトラCに期待すべきではないと思います。パウロの書いた手紙を手掛かりとして知るにイエスキリストによって示された恵みに戻ることだと知らされます。「恵み」…それは、分不相応で法外な出来事です。あのコリント教会にパウロは手紙を書いているのです。このことはとても不思議なことです。「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」。こう書かれたコリント教会は、党派争い、性的な堕落、貧者を辱める晩餐、教会員同士の裁判…大教会の一部の問題ではありません。小さな教会の大きな出来事です。おおよそ教会とは思えない出来事を抱えた集まりでした。しかし、パウロはその只中でなおコリント教会に向けられている神のまなざしを見ました。それ以上にパウロは迫害者だった自分自身に届いた神の恵みは、コリントの信仰者たちにも届くはずだと信じました。いや、むしろコリント教会を自分と切り離して考えていなかったのだと思えます。この小さく傷んだ群れに、恵みの渇望を見ました。罪の反対は美徳でなく、恵みなのです。パウロは、イエスキリストの恵みを自分のサイズとして、小さくはできなかったのです。そして、告白をしました。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。」恵みにはどうしても「キャッチ」という作業が必要です。それは、悔い改めと共に受け取られる必要があります。そして、悔い改めとは、祝福の道にまた戻そうとされる神の願いを知ることです。そこから、年間標語を「祝福の道へ戻る」といたします。



2014年3月9日

「イエスという名を聞くたびに」

犬塚 契牧師

 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。              マルコによる福音書6章14-29

 ユダヤに満ちた今までないようなメシア待望の空気。「来るべき方はあなたでしょうか」との問いが満ちていた。ヨハネがラクダの毛衣を着て、野蜜といなごを食べ、荒野で叫ぶことを始めると彼のもとには悔い改めの列が続いた。彼自身はメシアではなく、彼の後の人物イエスがそれだった。彼は「この人のことです」と具体的に指差すことのできる特別な預言者だった。最後の預言者ヨハネも、かつての旧約聖書に登場する預言者たちのように施政者への戒めを語った。ヘロデ・アンティパスが行った兄弟の妻との結婚は、王のすべきことではなかった。ヘロデの複雑な家系のルーツと迷信、妄信に近い宗教観にヨハネは、同情したのだろうか、それとも問答無用に批判と指摘をしたのだろうか。ヘロデは「非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とある。詩編の記者は、ヨハネの立場を代弁しているだろうか。「わたしの目は川のように涙を流しています。人々があなたの律法を守らないからです。」(詩編119編136節)▲ヨハネは、ヘロデの新しい妻ヘロディアによって、余興の褒美の代わりに結局は首をはねられて殉教する。ヘロデは、ヨハネの教えに心惹かれつつもプライドや面子がヘロデを正しい選択に導くことはなかった。それ以来、ヘロデは、イエスが奇跡を行っていることを聞くと、ヨハネが復活したのではと思って恐れるのだった。生前のヨハネは一度も奇跡を行ったことはなかったのに、「イエスという名を聞くたびに」繰り返される恐れだった。▲本当に大事なものを選べるのかという問いは、すべての人に等しく問われていることである。そして、社会の要求、人々の思惑と欲望、自分のエゴの中にある人間にとっていつの時代も簡単なことではない。それでも弱さいただき、削られる歩みの中で、多くを獲得も保持できなくされる人間が、救い主イエス様との重なりをいただき、残し、思い起こすことができるのなら、そこに幸いがあり、福音があるのだと思う。



2014年3月16日

「なぜ、向かい風なのか」

犬塚 契牧師

 父ヤコブは息子たちに言った。「お前たちは、わたしから次々と子供を奪ってしまった。ヨセフを失い、シメオンも失った。その上ベニヤミンまでも取り上げるのか。みんなわたしを苦しめることばかりだ。」          創世記42章36節

 ずっと信仰者ヤコブの生涯を通して、神が人をどのように伴われ、導かれるのかを辿ってきました。いよいよ創世記は35章を過ぎて、ヤコブの物語からヨセフの物語へと移っていきます。そこに一人の信仰者の興亡や終焉をみるのではなく、父ヤコブと子ヨセフの生涯の重なりとそれぞれの苦悩のそばの神のとりしきりを読みたいと思います。そのことを抜きにして、生きるという途方もない務めに耐え得ることができなかったのではないかとも思います。ヤコブはかつて兄エサウからの逃走の途中、ベテルにて神と出会いました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り…」(創世記28章)。実際、その後にヤコブ自身とその家族が直面した緊張の場面のそれぞれに神の伴いがありました。やがて時代が変わって、老年のヤコブがエジプトの王であるファラオの前に出るシーンがあります。ヤコブがファラオを祝福したのち、自分の人生を振り返り伝えます。「わたしの旅路の年月は百三十年です。わたしの生涯の年月は短く、苦しみ多く、わたしの先祖たちの生涯や旅路の年月には及びません。」(創世記47章)▲ヤコブの言葉は、神の約束の悲しき果てを表した言葉ではありません。約束の反故や撤回を表しているのでもありません。ヤコブと神ご自身との間で流れる信頼やいのちがあるのを、彼の生涯を順に読んできて思います。ヤコブが知りえる神とのチャンネルがあります。ヤコブのはらわたの痛みは、神のはらわたの痛みであり、神のはらわたの痛みをヤコブは自らのはらわたで知りました。それは神のそばに置かれた者の特別な祝福であり、たとえ生涯の年月が短く、苦しみ多く…とも、信仰者の真の慰めです。私たち自身においてもまた、キリストの歩みの想起とその重なりこそ、私たちの聞くことのできる福音であり、神の慰めです。



2014年3月23日

「イエスだけがおられた」

犬塚 修牧師

 「イエスはペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」    ルカ9:28〜36

 私たちは山に登ると、下界とは異なって視界が広くなり、今まで見えなかったものが見えてきたり、また地域全体を一目で見渡せる体験に似て、祈りは今まで狭く考えていた閉ざされた心を解放し、主のみ心を広く悟るように導いてくれる。主は弱い私たちの身近に居て下さると同時に、太陽のように輝く全能者、絶対的権威者として力強く、栄光の世界へと導かれるのである。私たちは物事を「因果律」で理解している時がある。この考え方に陥ると、自分を責めたり、人を裁いてしまう苦しい結果を生む。しかし全能の神は、「因果律」を打ち壊し、無から有を引き出し、また不可能を可能にされる。▲「因果律」とは「原因があって結果がある」という考え方である。この問題点は何か悪い出来事が生じると、途端に犯人捜しを始め、自他を責め過ぎる点にある。私たちは失敗して、悶々と悩むが、主は傷ついた私たちを救いの山頂に導き、伴って下さる。そこでイエス様は栄光に輝く神のみ子、復活の主として変貌された。ゆえに肉にある私たちもまた、いつの日か無傷の完全な栄光の体に変えられる希望がある。ふさわしい時期が来ると醜い芋虫も美しい蝶に変わるように、私たちも変えられる復活の日が来る。▲主と語り合っていたモーセとエリヤは旧約聖書の霊的巨人であったので、ペトロは思わず「三人のために仮小屋を建てましょう」と言ったが、神の答えは「イエスのみに聞け」であった。私たちもイエス様以外のものに依存してしまう事はないだろうか。主に対して三分一ほどの信頼しか持たず、あとはそれ以外のものに頼っている事は?そうなると心の軸がぶれて、不安定な生き方になり、豊かな祝福を逃してしまう結果を招く。この世の被造物を、主イエス様と同じ位置に並べるべきではない。全身全霊を傾けて信ずべきは主のみである。このお方に従う決断が、私たちの心をあふれる希望と平安に変えるのである。神は「因果律」の世界を「恵み」の世界に変えられた。ゆえに、万一、私たちは大失敗をしてしまっても、主は十字架の救いによって、いかなる罪も赦し(主のみ衣は純白となった)、疲れた心を泥沼から引き揚げ、救いの山に共に登って下さるのである。



2014年3月30日

「イエスの見ていたもの」

犬塚 契牧師

 朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた。シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると、「みんなが捜しています」と言った。                マルコによる福音書1章29-39節

 月に一度、マルコによる福音書を少しづつ読んでいます。終わりはいつになるでしょうか。終わる頃には、最初の出来事のほとんどは忘れてしまっていることでしょうが、わずか残るものがあったとして、そのことから神の心のひとつでも推し量ることができればと願います。▲汚れた霊に取りつかれた人の解放、ペトロのしゅうとめの癒し、安息日が終わった途端に押し寄せた病人たち…。イエスと弟子たち、そしてその家族の忙しい日が過ぎます。その中で、朝早くまだ暗いうちに祈るイエスの姿が書かれています。40年前、朝7時から夜11時まで開いている「♪開いててよかった」”セブン-イレブン”は画期的なことでした。今はスーパーも24時間営業をするようになりました。便利でいざという時に助かりますが、私たちの生きるこの時代は、きっと”静けさ”を、生活の遠くに置いたのだろうと思います。耐え忍ぶこと、待ちながら希望を探すこと、支配できぬものを明け渡すこと、それでも信頼すること…”静けさ”に含まれるそれらに目を止めることが少なくなりました。そんな力が弱くった自分を見つけます。それは現代だけではないのでしょう。イエスが病人を癒しはじめると、人々がその力を利用しようと集まってきました。いつでも大丈夫なように自分の町にとどまってほしいと願いました。イエスがいないと不安になり、やっきになって探しはじめました。弟子たちは自分の師の人気を誇らしく思ったことでしょう。イエスの居場所を知っている自分たちもなにがしかの者であるとの気持ちをもったことだと思います。ペトロは、祈りの中にあるイエスに対して、静けさを破るような声をかけました。「みんなが捜しています」。そこには、「みんなが呼んでいるのですよ。祈っている場合ではないでしょう!」という言葉が聞こえます。弟子たちは、イエスが何をしているのかを知っていましたが、弟子たち自身が祈りを覚えるは少し先になりました。「祈るためにまず必要なのは、沈黙です。 祈る人とは、沈黙の人といってよいでしょう。」マザー・テレサ





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