巻頭言
2013年3月


2013年3月03日

「賛美あるところ」

犬塚 契

 神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。 エフェソの信徒への手紙 1章20-23節

 エフェソの1章20節以降・・・まず前半部分。神はキリストを今の世だけでなく、来るべき世においても、すべてのものの上に置いたとある。おぉーなるほど、そうなのかと思いながら、実際はどうなのかと考える。人類の歴史を思い出し、昨今のニュースを振り返る。世は何を唱え、賛美し、最上として置いてきたのだろうと思う。エフェソの1章に書かれた壮大な神のデザインされたパノラマに、なお遠い世界があるのではないのだろうか。人々はキリストが「あらゆる名の上に置かれました」とは認めてはいない。「キリストを死者の中から復活させ、天においてご自分の右の座に着かせ」た神のとっておきの計画は、すべての人の賛美へとつながっていない。だから・・・。▲エフェソ1章は改まってもう一つの事実を記している。あえて「神はまた」と仕切り直し、キリストを教会の頭として与えたのだと書く。それは、世の中の一部としての教会をイメージしてはいない。神は、キリストを世に示し、教会に与えたのだという。そして、教会の頭とし、教会をキリストの体とされ、活き活きとはばからずに「すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」と宣言する。▲大地賛頌は音楽の授業で教えてもらった。神賛美は、教会のものだった。世界に代わってか、代表してか、ふじみキリスト教会も、イエスキリストは主なりと告白を続けたい。



2013年3月10日

「あなたがたが私の保証」

犬塚 契

 わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、わたしたちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています。・・・神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします。   Uコリント3章1〜6節

 釧路の湿原の中をゆるかに蛇行して釧路川が流れるかのように、「風は思いのままに」という神様の働きは自由さがある。新約聖書の大部分を書いたのは、イエスキリストの直接の弟子ではなかったパウロだった。彼にはいつでも「使徒ではない」「ニセモノ」というレッテルがついて回った。今日の聖書彼の伝道によって建てられたコリント教会でさえもエルサレム教会からの推薦状をもった教師が訪れるとコロリと翻って、パウロを疑うようになった。悲しいかな、人はなんらかの権威に弱いのだなぁとつくづく思う。そこでパウロは急いで推薦状の取得をしたのではなく、こう言い切った「わたしたちの推薦状は、あなたがた自身です」(2節)。うーん、これは「誰のおかげで教会ができたのかわかっているのか!」というパウロの嫌味、皮肉だろうか・・・。きっとパウロは、もっと先をみていたように思う。▲パウロはかつてそれこそ「推薦状」で仕事をしていた。使徒言行録9章に書いてある。「さて、サウロはなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。」今や彼はそれを求めない。コリント教会の置かれた場所がどんなであろうとも、今どこを歩んでいようと、それでもイエスキリストの働きの場であり、「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場」なのだ。推薦状の後ろ盾が何かを保障するのではない。霊によって刻まれた新しい約束の想起がどこまでも教会を教会たらしめるのだ。「理屈で説明できない平安を大切にしてください」福島の教会の牧師の言葉を思い出す。



2013年3月17日

「錯綜と賛美」

犬塚 契

 こうして、ヤコブはラケルをめとった。ヤコブはレアよりもラケルを愛した。そして、更にもう七年ラバンのもとで働いた。・・・レアはまた身ごもって男の子を産み、「今度こそ主をほめたたえ(ヤダ)よう」と言った。そこで、その子をユダと名付けた。しばらく、彼女は子を産まなくなった。  創世記29章

 「昔、昔あるところに、おじいさんとおばあさんが・・・」から始まって、「・・・それからというもの、幸せに暮らしましたとさ」というのが昔話で馴染んだ語りだった。あたらためて「・・・それからというもの」という世界の魅力を思う。きっとどこかでそんな安泰をずっと望んでいるのだと気づく。ヤコブの場合はどうだったのか。故郷ベエルシェバを出てハランに向かう途中に神との出会いをし、神の約束を自分のこととして確認をする。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28章)しかし、その後は“それからというもの”という筋書きに沿って、人生が運んだのではない。彼は顔と容姿が美しいラケルを妻とするために7年を耐えるという彼プランは頓挫し、その2倍の年月を必要とした。結婚後も「優しい目」をしたレアを愛することができなかった。神の守りの内にいるはずの人が、現実には苦労を重ねるのを創世記は隠していない。「・・・それからというもの」のフレーズが逆説のように浮かぶ。▲先日、お会いした牧師婦人の言葉「神様、ここだけは隠しておきたいです、という思うようなところが、どういわけか繰り返し明らかにされるんです」を思い出す。ヤコブにして、レアにして、私たちにして、もっとも弱い部分が繰り返し、神の前に取り扱いを受ける。虫歯以外の歯を削るよう治療はありえない。患部以外を切る手術はありえない。ヤコブへの共にあるという約束と守りとは、反故にされたのでなく、確かに進行しているのを思う。レアへの取り扱いもまた然り。ヤコブから愛されないという変わらぬ現実が、その取り扱いの中で、どうしてか「今度こそ主をほめたたえよう」との神賛美へと続いていく。



2013年3月24日

「前進に役立っている」

犬塚 契

 一方は、わたしが福音を弁明するために捕らわれているのを知って、愛の動機からそうするのですが、他方は、自分の利益を求めて、獄中のわたしをいっそう苦しめようという不純な動機からキリストを告げ知らせているのです。だが、それがなんであろう。口実であれ、真実であれ、とにかく、キリストが告げ知らされているのですから、わたしはそれを喜んでいます。これからも喜びます。・・・わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。 フィリピの信徒への手紙1章

 逮捕されて獄中にいるパウロから、フィリピのキリスト者への手紙。とても喜べない状況と投獄されたらもう二度と会えないという先行きの不安が教会に広がる中で、パウロは書いた「兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。」(12節)パウロのローマによる逮捕によって生まれた接点よって、それまで福音がどうしても伝えられなかった階級にまで、伝えられることになった。貧しい者たちへの広がりがすでにあり、それに加わって支配する者たちへのアプローチが逮捕によって可能になった。またそれが励ましになり、さらに福音が前進したのだという。そして、上記聖書箇所によると、パウロに励まされて伝道する人々とパウロへの競争心から(パウロに負けてなるものか!)伝道する人々がいたらしい。・・・それに対してのパウロの言葉が続く・・・「だが、それがなんであろう」▲最も小さきもの、弱いもの、傷ついたものへの連帯こそが、教会の一致を生み出すのだと聞いたことが心に残っている。パウロがいただいた恵みによる“連帯”に気づかされる。「生きるとはキリスト・・・、死ぬことは・・・」。自分の痛みはキリストの痛みであり、キリストの痛みは自分の痛みであるという連帯。ならばこの痛みをもそのキリストの愛を推し量るにふさわしい継ぎ手と用いてくださるだろうかという期待。(犬塚修協力牧師は不在のため、契牧師の子ども礼拝メッセージの要旨を変えて掲載しました。)



2013年3月31日

「神の恵みの善い管理者」

犬塚 契

 万物の終わりが迫っています。だから、思慮深くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。何よりもまず、心を込めて愛し合いなさい。愛は多くの罪を覆うからです。不平を言わずにもてなし合いなさい。あなたがたはそれぞれ、賜物を授かっているのですから、神のさまざまな恵みの善い管理者として、その賜物を生かして互いに仕えなさい。      ペトロの手紙 T 4章1-11節

 19日にシャローム子どもの家の卒園式が行われた。2回目の卒園式で4名の子どもたちの卒園を祝った。2Fの牧師室で一年、子どもたちの声を聞きながら、「いのちの成長に関する限り人間は無力です」との言葉を度々思い出した。種を植え、土をかぶせて、水をやり、後は“無力”にも待つ。それでも、それは底なしの無力感ではなく、成長させてくださる方への思い起こしをいただく場面である。「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。」(Tコリ3:6)▲巡回伝道者とトイレで会ったことがある。滅多にない場面で、とっさに質問が出た。「先生、律法的であることをやめるのには、どうしたいいのでしょうか」。伝道者はこう答えてくれた。「自分が律法的であることに苦しみ抜くことだよ」と。今、振り返って思う。人が癒されるとか、解放されるとか・・・方法論ではなくプロセスなのだと。季節の春夏秋冬があるように、魂の春夏秋冬をいただいている。冬は見えずとも静かに下に根を張っているのだと信じるのは、よいことだと思う。1年間、休んでいたような桜が今や満開である。▲ペトロの手紙の背景には、いつでも再びクリスチャン迫害の火の粉が舞い上がるかわからない恐れがある。クリスチャンの冬といえばそう言える。それでも「美しい慰め」といわれるペトロの手紙に流れるホッと感がある。個人においては慎み、祈り、交わりにおいては愛し合い、共同体ではもてなし合いなさいと。それぞれ大きな使命を与えられている、恵みを善く管理するという使命。冬でも春でも、与えられている恵みを数え、あたため、仕える者でありたい。





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