巻頭言
2012年03月


2012年03月04日

「滅びることなく」

犬塚 契

 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。  ヨハネ福音書3章16節

 日本では一日に3000人の赤ちゃんが産まれている。お腹を大きくし、時を待ち、痛みを超え、 ことなどできないほど大切な宝となる。何をもっても代えがたく、秤にはかけられない。だから、聖書の要約と呼ばれるヨハネ3:16の衝撃を考える。日本人には、すっと読めてしまう一文、何気ない“へぇー”。それでも、ユダヤ人たちは旧約聖書を知っていた。かつてアブラハムは、信仰を試され、神への信頼を表すために愛する子イサクを捧げよとの命令を受けた。結局は神はイサクを捧げることをよしとせず、最後のところで助けられる。そして、彼らは子を大切にされる神を知ったし、彼らは異教のように子を捧げることはしなかった。だから、「独り子を与えるほどの愛」というヨハネ3:16を最初に読んだ彼らの衝撃を思う。▲創世記の天地創造の神様のコメント。創造の日がめくられる度に「良しとされた」と続き、人を造られたときには「それは極めて良かった」と書かれている。造られたもの一切が神に祝福を受け、喜びの中で産まれ、増えていくデザイン。人が神を愛し、人と人が愛する姿。最高だった。しかし、罪が入り、人は神を見失い、帰り道も分からなくなった。神がプレゼントとして与えられた命や性や賜物は、その使い道が見失われた。「滅びる」とは、「地獄の火で焼かれる」というよりも、本来の価値や道を見失われた状態、方向を表している。しかし、神様はもう一度あの歓喜を取り戻そうとされ、その歴史が聖書にある。▲イエスキリストは「永遠の命」を与えるために来られた。イエスキリストを通して、神の本当の思いを知り、本音を聞き、愛の絆を確認する。それは、死をもっても断ち切ることのできない「永遠のいのち」である。



2012年03月11日

「讃えるべきもの」

犬塚 契

 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。 エフェソ 1章4節

 教会」を教えられたいと願って、3月よりしばらくエフェソ書。パウロの獄中書簡の一つで、有力な写本には“エフェソ”という言葉がないそうで、エフェソのみならず各地の家の教会にて回覧されていったのだろう。▲“囚人”と聞いて、“勝者”をイメージすることはほとんどない。むしろ逆だ。高い塀のあちらとこちら、通り過ぎる護送車のあちらとこちら、パトカーのドアのあちらとこちらに感じる感覚を、囚人パウロにローマ市民は感じただろうと思う。しかし、3節「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」“世的な祝福”を期待できないような獄中での祈りと瞑想の中で、いよいよパウロに聖霊を通して啓示されたことは、目の前の塀を越え天地創造までさかのぼる壮大な神の御意思だった。上記箇所↑。神は、私たちを愛して選ばれたと。それは天地創造の前からだと。この時のパウロが知った“神のときめき”を想像する。それはまるで、まだ小さい娘が成長しやがて結婚するのを夢見て、自分のウェディングドレスを楽しみにとっておく母親に似ている。いざ待ちに待ったその日には、いよいよ染みがないか確認し、念入りに手入れを施すのだろう。神も同じだと。この時、この場所を生きる私たちを神はそのように待っておられた。“聖なる者”と真剣に言われて恥ずかしくない人はいないと思う。人から少し褒められたくらいで、いたずらに裏を読もうとする性質がある。“汚れのない者”も本当か?と思う。口語訳では“傷のない者”と訳されていた。レビ記には、神は傷物は喜ばないと書いてあったではないか!しかし、旧約以来少しずつ開かれた「秘められた計画」(9節)は、イエスキリストによってその神の真意が明らかにされた。神はこのイエスキリストによって、私を子にしてくださった。



2012年03月18日

「切なる祈り」

犬塚 契

 神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。   エフェソ 1章22-23節

 親が子に信仰をしっかりと継承できれば、伝道しないでもクリスチャンは増えると言われて久しい。骨のある業、やりがいのある仕事だと思う。本当に伝えるべきものは何か、自分が真に祈ってきた対象は誰なのか、誰を信頼して自分は生きてきたのか、何に畏れをもってきたのか、何を礼拝してきたのか−。エフェソ1章後半のパウロの切なる祈りは、信仰継承を願う彼の渾身のそれに聞える。「…神を知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように」(17-18節)自己中心の罪からくる不平・不満によって失望を繰り返し、すぐに心の目が曇ってしまうことの多い者にとって、パウロの祈りにアーメンと思う。▲2011年3月11日14:46分 宮城県牡鹿半島沖を震源とする日本の観測史上最大の地震によって、2万人近い方々の命が失われた。伴なう原発事故は、なお収束に半世紀の時間がかかる。放射能の影響はどこまででるのかはまだ未知である。一年前のあの時の震え、怯え、叫び、うろたえを私たちは確実に皮膚の下に覚えた。後に産まれた人には、おおよそ追体験できないような感覚を取り込んだ。一年経ってやはり問われる。何が土台であったのか、どこに立っていたのか。▲フィリップヤンシー氏の講演に出かけた。彼が交通事故で瀕死の状態であった時に浮かんだ質問は3つだったと聞いた。@誰を愛したかAどんな人生を過ごしてきたかBこれから起こることの準備はできているか。▲エフェソの1章・後半。神はすべてのよき事、悲しき事、不条理なこと、そして死を超えてイエス・キリストを置いたと書く。そして、それを教会に与えたと。私たちは何を礼拝していいか分からない時代に放り込まれている。だから“呼び集められた者”が、どう礼拝するのかを世は注目をする。そこに満ちているのは、痛みを知ったキリストのからだである。



2012年03月25日

「キリストの平和」

犬塚 修

 「実にキリストはわたしたちの平和であります。」 エフェソ2章節9

 パウロはエフェソ教会を深く愛していた。それゆえに、彼らの長所と短所の熟知していた。彼らの弱点は知識を誇ったり、また行いによる義認を主張した事である。パウロは「人間はただ信仰により、また恵みによって救われる」と主張している。確かに、私たちが誇り得るものはキリスト以外にない。また「あなたがたは、以前は遠く離れていたが、今や、キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となった」(13節)とある。▲ 主は尊い血を流してまで私たちを罪から解放し、平和そのものとなられた。平和とは、戦争、争いがない一致の状態の事である。さらに主は十字架の血によって隔ての中垣を崩された。▲そして、主は二つのものを一つとされた。二つとは、ユダヤ人と異邦人を意味している。当時、両者は互いに憎しみ合い、軽蔑し合っていた。だが、主は彼らを一つとされ、ここに新しい人間を創造された。それは互いに尊敬し、相手の立場に立って考えようとして、共に生きる愛に生きる共同体の誕生であった。主は十字架によって、神と人との完全な和解を完成された。ゆえに、私たちは偽りの自我や欲望、利己心から解き放たれて、他者との真実な出会いを求めて生きる事を許されていいる。▲実に信じる者には永遠に至る宇宙論的な壮大な視点が与えられている。その目は過去・現在、未来を貫いてはるか永遠の世界にまで向けられている。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。」(1:3) さらにパウロは救われた者に対する驚くべき霊的祝福を次のように記している。「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」(2:6) 本当に神のすばらしい恵みに感動を覚える。


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