巻頭言
2011年3月


2011年3月6日

「何者なのか」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。・・・ わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。知っていたというなら 理解していることを言ってみよ。         ヨブ記38章1節〜

 年間聖句に掲げました、ヨブ記38章は、苦しみにあってから神が始めて登場するシーンです。なぜ神様が、長い苦しみの中にあったヨブに甘い慰めの言葉から始められなかったのだろうと思います。苦しかったねぇ、大変だったねぇ、という言葉からなぜ語られなかったのだろうと。 「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて 神の経綸を暗くするとは。」という言葉から始められました。「経綸」とは「計画を立てて、治めること」です。これに続く38-39章は、その神がヨブの知らぬところで、計画し治めてきたリストが列記されていきます。 あなたは大地が生まれた時どこにいたのか、あなたは海の湧き出る深海へ行ったことがあるか、星の合唱を聞いたことがあるか、カミナリのデザインを考えているのは誰か、砂漠を潤し新緑の芽を出すことができるか、星を集めて星座を作ったことがあるか、岩に隠れてヤギが子を産む時を知っているのか、その痛みが分かるのか・・・本当にあなたは神の計画を知っているのか。 まったく力なき者にされることやそんな自分を示されることはなんと苦しい経験でしょうか。震え、汗がひき、心臓が傷み、脈が乱れます。避けたいような道です。しかし、両手にもう何も持つことができなくなった時にこそ、その開いた両手は神のことばを握るためだと気付かされるのでしょう。 今、世を覆っているのは本当に「閉塞感」か。包んでいるのは「不信」か。むしろ変わることのない神の経綸、計画、恵みこそが余すところなく覆っているのではないかと。そんな神のことばに気付かされ、腰に帯をしてひとあしひとあし歩むわたしたちでありたい。



2011年3月13日

「マタイ24章3〜14節」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 イエスがオリーブ山で座っておられると、弟子たちがやって来て、ひそかに言った。「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、あなたが来られて世の終わるときには、どんな徴があるのですか。」イエスはお答えになった。「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがメシアだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に飢饉や地震が起こる。しかし、これらはすべて産みの苦しみの始まりである。そのとき、あなたがたは苦しみを受け、殺される。また、わたしの名のために、あなたがたはあらゆる民に憎まれる。そのとき、多くの人がつまずき、互いに裏切り、憎み合うようになる。偽預言者も大勢現れ、多くの人を惑わす。不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。そして、御国のこの福音はあらゆる民への証しとして、全世界に宣べ伝えられる。それから、終わりが来る。」

 11日の午後3時近く、車の中で揺れを感じた。周りのお店から人が続々出てくるので、揺れは地震からのものだと気が付いた。車から見ると道路の電柱が折れるのではないかと思った。一瞬の停電で赤だか青だか分からなくなった信号をすり抜けてとりあえず不安定に建っている自宅へと向った。夜中までテレビを見た。朝も見た。凄まじい津波の跡、止まぬ火災、原発の脅威が報道されていた。屋上で手を振る人々に胸が痛んだ。同じ日本で起きていることだと信じられない気持ちともどかしさがある。▲マタイにあるイエスキリストの言葉のように、焦りの中にあるとやっぱり愛が冷え、自分のこと、自分の周りのことしか考えられなくなる。いよいよ信仰が与えられなければならないのだと思う。心を真に神に向け、祈りの時をもって成すべき事を成したい。



2011年3月20日

「低きところへ」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 わたしが大地を据えたとき お前はどこにいたのか。 ヨブ記 38章

 雑巾をしぼる仕事をしていないからそう感じたのだろうか。今年は暖かな冬だった。まもなく春が来て、桜が咲き、若葉が芽吹き、黄色とピンクと黄緑と穏やかな風の季節になる。今年は川エビをたくさん採って、から揚げで食べるんだ、夜な夜なウナギを釣りに行くのだ、カゴを仕掛けて小魚と遊ぶのだ・・・。あー、待ち遠しい。そんな楽しい妄想の中で過ごしていた時に、大きな地震が起こった。美しく雄大な自然の中に生きていると同時に、計り知れない流動もまた自然だった。人の口からも自分の心にも、神の責任を問う声を聞いた。普段、私が神に期待していることは、左手で桜の花を咲かせ、右手で地震を抑えてくれていることだったのだろうか。そんな期待に応えなかった神は、もう神ではないのか。省みてでは、神を任命するわたしは何者なのか。▲聖書日課で民数記を読んでいる。イスラエルの民が献げた“犠牲”は、今の私達にとっては“祈り”に他ならない。煌々と燃やす犠牲の煙を見上げながら、神に思いが届くことを民は願った。やはり、私語が祈りへと変えられる必要がある。聖書日課でルカも読んでいる。若い時に旦那さんを亡くした84歳のお婆ちゃんが祈りの生活の中で、希望を神からもらい続けたことに驚く。恵みとして与えられる地下水脈のような希望をみる。希望とは、人の逃避先でなく、神からのプレゼントなのだと知る。詩編も読んでいる。生の言葉での神への賛美が、私の代弁でもあり、神の宣言としても響く。▲被災地の報道。瓦礫の町を見ながら、親を呼ぶ子どもの声が耳に残る。言葉がでない。なぜ、この子の親は見つからないのかを聖書は答えない。地上の営みの中で、分からないことは多い。しかし、分かることもある。水が低いところに流れるように、恵みもまた低きところに流れる。ならばこの揺れ動く大地の中で、低くされた一人一人にこそ天来の祝福と恵みがあるようにと祈る。



2011年3月27日

「わたしの手のひらに刻み」・・・先週の説教要旨

犬塚 契

 シオンは言う。主はわたしを見捨てられた わたしの主はわたしを忘れられた、と。女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。たとえ、女たちが忘れようとも わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける。あなたの城壁は常にわたしの前にある。          イザヤ書49章14-16節

 イスラエルは破壊され、聖なる都エルサレムは荒らされた。神の住まいである神殿にバビロンの兵士達は土足で入りこみ、男達はバビロンに船で輸送され、国は壊滅した。長いイスラエルの民の歴史の中でも、最悪の状態であり、苦しみの中で語られたことばがイザヤ書49章のことばだった。人々は神がすでに私たちを忘れたと思ったし、見捨てたと嘆いた。実際、荒れ果てた今の有り様が雄弁にそう告げていた。しかし、「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか」と神は語られた。人は忘れることはあるかも知れないと思う。お年を召し、家族のことを思い出せなくなる状態にある方のこともたびたび聞く。人は忘れてしまうこともある。続けて神は語る。「たとえ、女たちが忘れようともわたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを わたしの手のひらに刻みつける」。覚えていたものは忘れる。書いたものは消える。しかし、刻んだもの、彫ったものは消えることはない。手のひらに刻むとは傷みながらも離さずなお握り締め続ける作業だと思う。神様はこの作業を続けておられるのだ。振り返ってなんと人の歩む道に石を置いてきたことか、愛のない行動といらぬ言葉の数々が思い出される。なんと神の働きを単純化し、私の意に沿わないときに神に怒っていたことか。神はそんな不信の出来事の一つ一つを拒絶する理由とされずに、刻みつけ覚えておかれるためとされた。▲かつて弟子であったトマスは、イエス復活のニュースを聞いても「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言った。イエスキリストは後にその願い通り傷ついた手を差し出された。傷をみて、トマスは指を入れることはできなかった。


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