巻頭言
2010年3月


2010年3月7日

「そわそわ・わっ」

牧師 犬塚 修

しかし、急いで出る必要はない。逃げ去ることもない。あなたたち の先を進むのは主であり、しんがりを守るのもイスラエルの神だか ら。 イザヤ52:12

「そわそわっ」から「そ」をとれば、「わっ」となります。これは小 さなことですが、このわずかな違いが、心に平安と喜びをもたらします 。そわそわした気分とは、良い意味では、期待に胸を膨らませている嬉 しい心の様ですが、悪い意味では、不満感や焦りやイライラ感の表現で す。「このままで良いのか、いや、ダメだ、回りを見てみろ。お前の罪 も決して消えない」などという罪意識や自責の念が、私たちに暗くなる そわそわ感をもたらします。その背景には、「自分は〜しなければなら ないのに、そうできないので失格者だ」という誤った律法主義がありま す。それは喜びの心ではなく、苦しみあえいでいる心です 。一方、「わ っ」は驚きを表す意味です。主は私たちを命を捨て、私たちがなすべき 事のすべてを成し遂げて下さいました。ゆえに、もはや焦ったり、イラ イラ感を卒業できます。一切は主のみ手の中で、豊かな恵みに変えられ ていくのですから。日々のマナについても「ある者は多く集め、ある者 は少なく集めた。しかし…多く集めた者も余ることなく、少なく集めた 者も足りないことなく…」(出エジプト記16:17〜18)とあります。この マナの奇跡はイエス様に従う人のすばらしい生涯を示しています。たと え自分の中に不足感を覚えても、ゆったりとした気持ちで楽しく過ごす 事です。何を見ても「わっ!すばらしいね」と感動し、驚嘆して生きる 心のゆとりを持ちたいものです。



2010年3月14日

イエスの嘆きの意味

牧師 犬塚 修

イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわ たしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢し なければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい」 マルコ9:19

父親は必死の思いで、病んでいたわが子を主のもとに導きました。彼ら は厳しい状況下にありました。この切なる求めに対する主の答えは上記 にあるように意外にも厳しいものでした。人々は「うわさに聞いてきた 愛の人ではない。なぜもっと優しい言葉をかけてくれないのか。厳しす ぎる…」と内心、主を責めたかも知れません。何故、主はこの一見冷た い言葉を語られたのか。この秘密を解く鍵は「反逆する者らよ、聞け。 この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか」(民数記20: 10)というモーセの言葉にあると思います。モーセは民のつぶやきにが まんできなくなって叫んだこの言葉のゆえに、後日、悲しみを体験しま した。主はモーセのうめきと怒りのためにも、死んで下さったのではな いでしょうか。またいろいろと憂いに満たされた私たちのためにも。  さらに、この病人についても驚くべき真理が語られていると信じます。 彼は無益な者と見られていたかもしれません。この状況下で、主がこの 言葉を語られた真意は、彼は無益どころか、あの1200年以上も前の戦っ た神の民族に匹敵するほどのすばらしい存在と見なされていたのではな いでしょうか。彼は信仰の旅人としての位置が与えられたのだと思いま す。私たちは人生で体験するこの苦難に、どんな意味があるのかと問い かけます。だが、答えがないと感じて悩みます。傷の痛みよりも、生き ている無意味さに打ちのめされもします。しかし、自分の苦しみが神の 歴史支配のみ業にしっかりと結びつくならば、私たちは苦しみから目を そらせず、自分に与えられた使命を果たすゆとりが湧いてきます。ゆえ に、上記の主の言葉は、悩む者達へ感情的ないらだちではなく、愛に基 づいているものなのです。そう信じて信仰の道を歩き続けましょう。



2010年3月21日

「拝啓、H様 お元気ですか」

牧師 犬塚 契

お元気でお過ごしでしょうか。小田原で10年ほど前に連れて行ってい ただいた幻の鳥からあげ定食の店をようやく発見しました。若鶏の半 身をそのままからあげにした絶品のお店。メニューは1000円のその定 食しかありませんでしたよね。あの古く小さく油と美味しさに満ちた お店は移転していました。揚げてくれたおじいさんは亡くなられたそ うで息子さんが継がれているようですよ。時々、珍しいお店やら散歩 やらに誘っていただき、いろいろと伝えてくださったと思うのですが アンテナが低くキャッチできた分が少なかったと反省しています。あ なたが神学校卒業後にガードマンをしながら遠路小さな教会を支えて いると聞いて、高校生だった私はそんな生き方、献身の仕方もあるの かと思いました。驕るでもなく、卑屈でもなく、煽るでも煽られるで もなく、神に聞き、神に従う潔さを勝手に見ていました。お会いした 際、「この仕事、ウォークマンで一日中聖書を聞いていられるからい いんだよ」って話してくれましたね。あまりに爽やかに楽しそうに言 われたのが印象的で数年後に同じ会社で少し働きましたが、国道一号 線、携帯見ながら運転のダンプに轢かれそうになりました。私も津久 井なんかの山道がよかったです。数年前から開拓伝道を始められたと 聞きました。その尊い働きの祝福を心から祈ります。あなたや長年教 会を支え続けられたもう一人のHさん、最近新しいホームに移られま した。それからAさん、Bさん、Cさん・・・。なんだか生きている とみなさんの歩みがチラつくのです。信仰がないと生きられなかった であろう歩みがチラつくのです。うらやましくもあり、頼もしくもあ り…。「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただし い証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかな ぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではあ りませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら。 」へブル人への手紙 12章1節〜



2010年3月28日

十字架の道

牧師 犬塚 修

初めからのことを思い出すな。昔のことを思いめぐらすな。見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。 イザヤ43:18〜19  病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ、彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは彼の手によって成し遂げられる。               イザヤ53:10

            「優しさほど強いものはなく、真の強さほど優しいものはない」という言葉を目にし、なんと魂に響く真理かと感動いたしました。この生き方を貫いた方を私達は知っています。イエス・キリストです。今日から受難週が始まりますが、イエス様は、限りなく優しいお方として、私達を愛しぬき、私達のすべての罪を背負って、十字架にかかり、死んで下さいました。そのお姿は、至高の愛であり、かつ凄絶であり、イザヤ書53章の予言の成就そのものでした。主の強さと優しさ、犠牲的愛の深さに私達は言葉を失います。主が神の御子としての栄光と賞賛に身を置かれたならば、十字架のあがないの死はあり得ませんでした。 しかし、主はその栄光を捨て、人として、否、奴隷となって、苦しみと悲しみに満ちたドロロ−サの道に進み、ついに十字架で命を捨てられたのです。私達のために、ただ私達を慕うがゆえの命がけの愛でした。その熱愛に目覚めたパウロは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:6〜8)と書き残しました。主は十字架上で「私は渇く」と言われました。その真意は「私はあなたの愛に渇く」ということではなかったでしょうか。主イエス様は私達と交わり、語らい、共に人生を歩みたいと願っておられます。「私はここにいます」と叫んだイザヤのように、私達もこのイエス様に真摯にお応えしたいものです。

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